いま改めて考える「聖火リレー」の意味と歴史

万博記念公園内での実施となった大阪府の聖火リレー。トーチキスで聖火をつなぐ、西田紗代さんと太田雄貴さん(Photo by Tokyo 2020)

3月25日、東京オリンピックの聖火リレーがスタートした。新型コロナウイルスが退散していない中での出発であった。著名人がランナーを辞退することがその度にニュースとなって流れた。多くはスケジュールの都合としたが、感染拡大を理由に挙げた人もいた。

米国の大学教授が "感染を広げるだけの聖火を消すべきだ! リレーはヒトラーが始めたものだ!"と真っ向から聖火リレー自体を否定した。それが五輪に多額の放映権料を支払っている米国NBCのウエブ版に掲載されたので、日本のメディアも大きく取り上げた。あたかもそれがNBCの見解であるかのように。

初日の福島で、コンボイカーからDJが沿道でランナーを応援する人々を盛り上げたが、その派手な演出が「復興五輪」とかけ離れていると批判する報道があった。4月13日と14日に大阪各地を回るはずだった聖火が、コロナの感染が止まない状況から、万博記念公園を廻る形になった。

今、日本列島は第四波の中にあり、4月25日から4都府県に緊急事態宣言が発令された。果たして聖火は7月23日、オリンピックスタジアムに辿り着けるのだろうか? 聖火リレーが通らなければならないトンネルは長い道のりに思える。

Covid-19は問うている。「オリンピックは命と引き換えにするほどの価値があるのか?」と。東京オリンピックはこの問いに答える使命がある。

聖火リレーの121日はこの難問への正解を見つける旅なのかもしれない。


福島県での聖火リレースタートの式典に出席したサンドウィッチマン。冗談で盛り上げながら「ぜひきれいになった被災地も見ていただきたいですし、まだ全然立ち入ることもできない場所も実際ございます。そういったところも素直に見せていただきたい」と語った(Photo by Tokyo 2020)

誕生は1936年ベルリン大会 ナチズムの対極にある思想が表現


聖火リレーが生まれたのは1936年、第11回オリンピック競技大会である。ベルリンで開催されたこの大会はヒトラーのオリンピックとも言われてきた。それ故、ヒトラー、ナチズムというフィルターからこの五輪を批評する識者が多いが、オリンピズムの視座から見れば、現代のオリンピックの様式が確立された画期的な大会と言える。

そもそもベルリンでの五輪開催は1916年のはずであった。第6回オリンピック競技大会である。しかし第一次世界大戦の勃発で中止となった。第11回大会は第6回大会の夢を実現する大会でもあったのだ。第6回大会はヒトラーとは無縁である。

第6回大会の事務総長であったカール・ディーム博士は、古代オリンピックの研究からオリンピズムを具現する競技大会のあり方を考え抜いた。1909年の国際オリンピック委員会(IOC)総会で開催が決まってから周到な準備を続け、1913年6月には一周600メートルのトラック、100メートルのプールが併設された観客3万3千人収容のオリンピックスタジアムを竣工した。

折しも、この競技場でその一年後に開催されたドイツ代表選考会の開催中に、同盟国オーストリア皇太子夫妻のサラエボでの暗殺の悲報が入り、場内騒然とする中、弔旗が掲げられたという。ベルリンオリンピック中止への序章だった。

敗戦の中でもカール・ディーム博士はベルリン五輪の夢を捨てず、1936年開催に尽力した。時の政権はアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)であった。当初全く五輪に関心のなかったヒトラー総統を説得し、ディーム博士は自身のプランを開花させていく。スタジアムは10万人収容、選手村も3500名を収容するものを作った。トラック種目や競泳のゴールの写真判定装置やフェンシングのポイント判定装置、ダイビングの審判判定表示のコンピューター化も博士の発案であった。
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文=春日良一 編集=宇藤智子

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