日本で「エシカル消費」が進まない3つの理由

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理由2:議論や討論をすることが苦手


議論や討論のテーマは、社会のこと、環境のことに限らず、なんだっていい。友人や家族のあいだで、何か1つのテーマに対して議論をする機会はあるだろうか?

目的をもったコミュニティであれば、議論や討論がされているかもしれない。しかし、今の日本では、自分はどう思うのか、相手はどう思っているのか、そしてどんな解決方法がありそうなのかを話し合う機会も場も少ないように思う。長らく日本では、いわゆる詰め込み型の教育がされてきたことにも要因はあるだろう。こんなことを言ったら、相手が傷ついてしまうのではないかと、つい考えてしまう謙虚さも邪魔をしているかもしれない。いずれにしても、私たちは議論や討論をすることが苦手なのではないだろうか。

理由3:「常識」に疑問を持たない


本当にそれが正しいのか、もしくは、みんなにとっては良くても、自分にとって果たして本当にそれは良いことなのかをしっかり考えられる人はどのくらいいるだろうか。

例えば、電気。スイッチひとつで湯水のように使えるが、電気はどこでつくられて、どう引いてきたものか、そのスイッチパネルの裏側を正確に把握している人は少ないだろう。東日本大震災のとき、当時東京で暮らしていた私は、電気が原発でつくられていることを知ってはいたが、それが福島から来ていることを、恥ずかしながら理解してはいなかった。

今目の前にあるものが、何でつくられていて、捨てたらどこへ向かうのか。当たり前を疑うことと同時に、暮らしの前後にあるライフサイクルを俯瞰する視点をもたなければ、本当にそれが正しいのか、自分にとってそれがいいのかに気づくことは難しいと思うのだ。

先日私は、竹でつくられたトイレットペーパー「BambooRoll」をリリースした。ふと、トイレットペーパーはリサイクルもリユースもできないこと、もしかしたら森林をトイレに流してしまっているかもしれないと気づいたからだ。

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「BambooRoll」より

ファッションや美容といったジャンルでは「エシカル消費」が先行しているが、暮らしに不可欠な日用品はどうだろう。

暮らしの前後にあるライフサイクルにも目を向けるだけで、気づくことがたくさんあるはずだ。社会をどう変えていくのか、あるいは、どう環境を守っていくのか。それは、個人の暮らしを変えていく、その積み重ねでしかないように思う。

連載:里山に住む「ミニマリスト」のDIY的暮らし方
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文=増村 江利子

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