東京ディープチャイナ


房監督によれば、LGBTに関する日中の違いは、社会的な認知度にあるという。中国ではSNSやアプリを通じたLGBT同士の交流は広がり、都市と農村における地域格差もある程度は解消されたとはいえ、世代間の認識格差に関してはまだまだ大きいようだ。作品でも取り上げた、親子の葛藤の背景はそこにある。

改革開放から40年を経て、中国社会は劇的な変化を遂げたが、従来的な価値観の世界で生きてきた親の世代にとっては、LGBTという生き方は理解の範疇を超え、受け入れがたいものだということは想像に難くない。

これまで中国の同性愛団体は、エイズ対策に協力するなど政府に貢献してきたが、いまだに民政部(日本の総務省に相当)は、LGBTボランティア団体である同性恋親友会のNGOとしての登録を認めていないという。海外とのつながりが強いことから、政治的な主張を内に秘めた団体と認識しているのかもしれない。親にしてみれば、こうしたことも不安の種となるのだろう。

房監督がカミングアウトをめぐる親子の葛藤を、1989年生まれである自分の同世代が抱える問題として考えたことは、筆者もよく理解できる。改革開放後に生まれた彼らは、子供の頃から海外のアニメやドラマを観て育った世代であり、親の世代とは社会に対する認識に隔たりがある。

房監督が初めて谷超さんに会ったとき、口数も少なく、自信なさげに見えた。ところが、故郷への帰省を決めると、彼は多くを語り始めた。父親にカミングアウトすることが、彼にとっての「出櫃」(ふたのある大きな箱から出ること)の第一歩だったのだ。

それで親子が和解に至るわけではないとしても、子の側からすれば、自分の人生を大きく一歩踏み出したことになる。そこに同世代としての共感や支持があって当然だろう。

親同士が見合いをする「相親角」


子の覚悟と親の思いがぶつかりあったのが、房監督が作品で取り上げたもうひとり、安安さんのケースだ。彼女とは上海のクラブで知り合ったという。すでに周囲にはカミングアウトし、10年前に母親にも伝えていたが、以来彼女は親子関係で悩んでいた。母親は「中国の社会では同性愛者として生きていくことなどできない」という見解とともに、「面子」ということばを繰り返し使っていた。

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ボランティア団体の懇談会に呼び、母親(右)と対話する安安さん(左) (c)テムジン

かつての時代を知る母親の気持ちは理解できなくもないが、この「面子」とはなんなのだろう。日本語の「メンツ」とは相当異なるものだと理解すべきだと考える。中国の人にとって面子とは、自分が自分であるための全人格にかかわるものなのだ。

「彼女の母親にとって、娘の人生は自分のすべて。もし、娘が普通に結婚して家庭を築いて子供を生んでくれないのなら、自分は何のために生きてきたのかと絶望してしまう」と房監督は話す。

安安さんの母親は自殺すると何度も騒いだようだし、せめてウソでもいいから披露宴を地元で開いてほしいとも娘に話していたという。知り合いの男性にその日限りの新郎を演じてもらい、地元で婚礼を挙げる。それで母親の苦痛がいくぶんか解消されるというのである。

なぜそこまでと思った人もいるだろう。だが、母親の混乱ぶりを責める前に、中国の親子関係について理解を少し深める必要があるかもしれない。

文=中村正人

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