昭和・平成を代表する歌人、河野裕子が64歳で没して10年。
この「あなた」には、きわめて多作だった彼女の歌、数万首の中から、彼女が短い生涯を閉じた後に夫と息子、娘の3人が選歌した1567首がまとめられています。
同じく歌人で細胞生物学者の夫と、恋人時代から40年以上にわたって交わした恋の歌、死を覚悟して詠んだ絶唱、彼女に送られた夫からの挽歌など、詩歌史上、例のない境遇で詠まれた歌の数々は、初めて彼女の歌に出合った私に鮮烈な印象を残しました。
残念ながら、我々ビジネスマンの仕事の成果は、その場限りで完結してしまうものがほとんどです。しかし、歌は時間や世代を超えて、人間の感情、それも日常では口にできなかったことや人知れず思っていたことを、色鮮やかに美しく表現してくれる「器」です。私がこのビジネスの対極にあるとも言える彼女の詩集をたびたび手に取りたくなるのは、そんな人間的な器のかけがえのなさを感じたくなるからでしょう。
今回の新型コロナウイルスは、多くの人の人生観を変えるほどの影響を及ぼしました。「職場と家庭」「仕事時間とオフ」「現役時代と引退後」といった、従来の二分法が曖昧になり、勤務形態や生活拠点の選択も劇的に変わりました。それは、これまで家では「風呂」「飯」「寝る」くらいしか言ってこなかった、典型的な昭和の化石男である私にとっても同様。支え続けてくれている家族との時間や接し方が変わるなかで、大切な人たちに、いたわりと感謝の気持ちをどう伝えるべきかを問われているようにも感じました。
河野家は、夫婦ともに歌の才があり、夫は見事な二足のわらじ、息子も娘も歌人という、類まれなる家庭です。しかし、これは夫である永田和宏氏が別の本で正直に書いているのですが、彼女の闘病中、抗がん剤の副作用で精神が不安定になり、地獄のような日々もあったといいます。それは、「家族愛」や「絆」の理想形として美化できない現実であり、他人が安易に「うらやましい」とは言えない環境だったのです。
それでも、彼らには「歌」がありました。自分の素直な気持ちやなかなか言えない思いを、歌という言葉の器に盛って、家族に伝えてきたのです。歌を詠む才能がない私にまねはできませんが、歌に代わる自分なりの器で、素直な思いを伝えることがきっとできるはずです。
私は、当社を退社する人へのはなむけとしてこの本を贈っています。「引退後も、次の職場でも、仕事の外に大切なものがあることを忘れないでほしい」という思いを込めて。
title/あなた 河野裕子歌集
author/永田和宏・永田 淳・永田 紅(編)
data/岩波書店 1980円(税込)/342ページ
profile/かわの・ゆうこ◎1946年、熊本県生まれ。京都女子大在学中に角川短歌賞を受賞し、女性歌人の第一人者として活躍。細胞生物学者である、夫・永田和宏と、40年以上にわたり、互いへの思いを歌にする「相聞歌」を交わし合い続けた。長男、長女もまた、歌人としての顔をもち、歌人一家として知られる。2010年、死去。
まつだ・くにお◎1958年、兵庫県生まれ。大阪大学法学部を卒業後、80年に日本銀行に入行。フランクフルト事務所長、広報課長、長崎支店長、大阪支店副支店長等を歴任。ユーロが域内通貨として発足した時期にはドイツで立ち会った。2013年から現職。