経済・社会

2020.12.31 11:00

まっぷたつに分断された町を大きく変えた「居場所」




こうした市民の動きや活動の現場には、必ずと言っていいほど牧野市長が訪問。時間が許す限り最後まで市民と一緒に参加しました。牧野市長のモットーである「現場百篇」を16年間体現し、誰よりも現場に出向き、市民の声を聞き、そしてインターネット上にある「現場」までにもアンテナを張る。市民のブログやFacebookの投稿をチェックしてはコメントを書き、市民の困りごとを見つけようものならすぐに職員に指示を出しサポートしてきました。

我が町の市長に見てもらっている。それだけで嬉しくなるものですし、市長がやって来ては「ありがとのぉ。〇〇さんのおかげやのぉ」と声をかけるので、モチベーションがアップします。

市の職員に対しても然りです。市民が提案したことを積極的に取り入れるとなると、当然、市の職員の方々は尻込みします。前例のないことにチャレンジするということは、失敗というリスクを伴うからです。しかし、牧野市長は、「わしが責任を取るから市民をサポートしてやってくれ」と、背中を押してきました。すると、職員の方々も積極的に現場に足を運ぶようになり、市民と共に切磋琢磨するようになっていきました。

市民が「やりたい」ということを、市民を信じて任せてみる。任せられた市民は主体性が生まれ、まちのことが自分事になっていきます。様々な先進的な施策を行ってきた鯖江市ですが、まさしく主役を市民にすることで、奏功したのです。一方で、市民に活躍の場を提供した市長は、退任時の78歳までブログとSNS投稿を続けました。

その牧野市長による発信がきっかけで鯖江の地域活動にのめりこんだ人が何人もいます。私もその一人です。

2006年3月、東京でブログシステムを作るIT企業に勤めることが決まった私は、勉強のためにブログを始めました。サイバーエージェントの藤田晋社長が鯖江出身ということもあり、サイバーエージェントが運営するアメブロで書いていたのですが、その2か月後の5月1日、同じアメブロでブログを始めたのが、当時市長になられて2年目の牧野市長でした。

鯖江が嫌で都会に飛び出していましたが、我が地元の様子を目にするととても嬉しく、日々牧野市長のブログを閲覧し、会ったこともないにもかかわらず図々しくコメントまで書くようになりました。そのコメントにも毎回丁寧に返信をくださり、勝手に親近感をもちました。

ある時、とても辛い事があってブログを書けなくなり、1カ月ほどブログの更新が止まった頃、1つのコメントが付きました。

「〇〇(ブログのタイトル)さん、つぶやき待ってます。暫く更新が無いので心配してます。帰鯖の折、お尋ね下さい、お待ちしてます。ますますのご活躍を。」

まだお会いしたことのない牧野市長からのコメントでした。鯖江出身というだけの普通のOLの日常を書いたブログを見てくれて、そして待ってくださっている。しかも、地元の市長が。本当に嬉しく、頑張って書こうと再開し、その後も続けたブログは、今年で15年目になりました。

東京での生活は楽しく、鯖江に帰る気は全くありませんでした。しかし、このことがきっかけでその後、鯖江に戻り、現在も地域活動を行っています。

市民が主役と言うのは簡単です。どれだけ本気になって市民に寄り添い、そして市民を信じて居場所と出番を与えるか。

10月16日。牧野市長によって活かされた市民と職員が作った長い花道を通って牧野百男市長は勇退。牧野市長が創った市民主役の理念を継続させようと、市民主役を掲げ市民に選ばれた新市長のもと、現在も市民主役の花道を作り続けています。

文=竹部美樹

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