Fluxergyは、新型コロナウイルスの検査システムを開発しており、パンデミックが収束する前に認可が得られれば、大成功を収める可能性がある。
現在79歳のツーにとって、バイオテック企業への投資は初めてだが、彼はリスクを取ることには慣れている。ツーは、パソコンが登場して間もない頃にコンピュータ業界に参入し、ライバルとの競争に勝ち残ってきた。
中国で生まれたツーは、台湾で育ち、ドイツに留学した経歴を持つ。彼は1968年に初めて米国を訪れ、その自由な雰囲気が気に入って移住を決意した。当時、ツーはフランクフルトでモトローラに勤め、生活は豊かだったが、常に自分が外国人であることを意識していたという。しかし、アメリカは違った。「誰も私が何人であるか聞かなかった。すぐに社会に溶け込むことができた」とツーは話す。
ツーは、ドイツで電気工学の学位を取得した後、姉の支援を受けて米国の観光ビザを取得し、1971年に渡米した。彼は姉を頼ってアリゾナ州スコッツデールに住んだが、当時は不況で職を見つけることができなかったという。「タクシーに乗ると、10回に3、4回は運転手が博士号を持っているほど景気が悪かった」とツーは当時を振り返る。
ツーは、ギフトショップで台湾製の小間物を販売して生計を立てた。彼は、米国では不動産を購入するに当たり、頭金は評価額の15%しか必要ないことを知り、親から借金をしてビルを購入した。ビルの収益は順調だったが、ツーはもっと都会でビジネスがしたいと考え、ビルを売却して1975年にロサンゼルスに引っ越した。
ツーは、ロサンゼルスで様々な仕事に手を出した後、1981年に台湾生まれの電気技師であるデーヴィッド・スン(David Sun)と知り合った。スンはツーより10歳若く、よく一緒にバスケットボールをして遊んだという。スンは、ツーにコンピュータの将来性を教え、ツーがコンピュータ業界に参入するきっかけを作った。
2人には、IBMのようにパソコンを丸ごと製造する資金がなかったため、メモリ製品に特化し、1982年に最初の会社「Camintonn」を自宅ガレージで立ち上げた。スンが回路基板を設計し、ツーが電話営業を行った。ツーは専門知識がなかったが、スンから“パリティ”や“自己補正”といった用語を習って営業トークを行ったという。