自分を客観視するだけでは飽き足らず、いらぬ敵をつくり出し、人と比べてはダメな自分を痛めつける。いいことがない悪癖なのに、多くの人がなかなか手放すことができないでいるのが、「他人との比較」だ。
今年こそ、そんな苦しみは手放してしまいたい。軽やかに自分のすべきことに注力できるようになるには、どんなふうに考えたらいいのだろうか。
そのヒントを、曹洞宗 特雄山建巧寺の住職である枡野俊明氏に求めた。40万部を突破したベストセラー「心配事の9割は起こらない 減らす、手放す、忘れる──禅の教え」(三笠書房)から、許可を得て一部抜粋して紹介しよう。
“妄想”しない──禅が教える「比べない生き方」
「莫妄想(まくもうぞう)」という禅語があります。その意味は、「妄想することなかれ」ということ。
妄想というと、みなさんは、ありもしないことをあれこれ想像することだと思っているかもしれません。しかし、禅でいう妄想は、もっともっと広く深い意味を含んでいます。
心を縛るもの、心に棲みついて離れないものは、すべて「妄想」です。「あれが欲しい」という我欲も、「これを手放したくない」という執着も妄想です。
他人がうらやましいという気持ちも、自分はダメだという思いも、実はすべて妄想なのです。
もちろん、心をとらえるあらゆる妄想を断ち切って、いっさいの妄想と無縁で生きる、なんていうことはできません。それは仏様の境地。人間である限り、心のどこかに妄想があって致し方なし、なのです。
ですから、大切なのは、「妄想」をできるだけ減らしていくということ。これは、誰にでもできることなのです。そのために必要なのが、妄想の「正体」を見きわめることではないでしょうか。
孫子に、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という有名な言葉がありますが、まず、敵を知らなければ、それとどう向き合ったらいいのか、その手立ても見えてきません。
妄想を生み出しているもっとも根源にあるものはなにか。それは、ものごとを「対立的」にとらえる考え方です。
たとえば、「生・死」「勝・負」「美・醜」「貧・富」「損・得」「好き・嫌い」といった分別をしてしまうことです。「生」に対立するものとして「死」を考え、両者を比較して生は尊くて、死は儚いなどという受け止め方をしてしまうわけです。
「あいつはいいな。自分はなんて運が悪いんだ」
「なぜ、自分は損ばっかりしているのに、彼女はいつも得をしているのだろう」
一事が万事です。なにかにつけて、他人をうらやむ気持ちや自分を嘆く思いが、ムクムクと頭をもたげてきて、そのことに心がとらわれてしまうのです。まさしく、まわりに振り回されている姿、妄想にがんじがらめにされている姿といっていいでしょう。