「60点を狙い続ける」のをやめた。元厚労省官僚・千正康裕の決断

千正康裕さん


しかし、近年の行政を巡る環境の変化は、新たな気持ちで仕事に取りかかろうとする千正さんを悩ませた。

「復帰して元々やってたプロジェクトのマネジメントに戻った時に、いろんなアイデアが浮かぶんですよね。いろんなことを言ってたら、部下に止められたんですよ。『今でも最低限やらなきゃいけない仕事で毎日若い人が夜中まで働いてる。これ以上仕事が増えたらパンクしちゃう』って言われて。また、手つかずの新しいプロジェクトのマネジメントを任されたけど、スタッフが今やっている仕事に追われていて僕に現状を説明する準備すらできない」

「ギリギリの及第点を狙う」仕事をやめることで得た可能性


こうした状況は他の部署も同じで、組織全体が人手不足によってオーバーフローの状態だった。「こうやったらもっとよくなる」という思いがあっても、部下をつぶすことはできない。やらなければならない仕事が漏れてしまったら不祥事に発展し、国会でも追及などが始まり、結果、業務量が跳ね上がり行き詰まってしまうことも考えられた。

「一つひとつのプロジェクトに極力労力をかけないようにしないと、全部こなせない。かといって税金を使う仕事なので、国民に怒られないようにギリギリ60点の及第点を狙う必要が出てくる。そんなマインドでマネージャーの僕は判断し始めるわけです。例えば、『メディアからイベントやりませんかという話が来てるんですけど、どうしますか』と言われて、よさそうなんだけど『それをこなす余裕がないから、これナシ』って言って断るとか」

今の組織の状況では、元気になった自分はこれからまた忙しい部署の課長等を次々任されることになるだろう。ずっと最低限のことをして、不祥事を起こさないように60点を狙い続けることを定年まであと20年続けるのか。千正さんは、そう思った。

「ずっと60点を狙って、不祥事を起こさないようにうまくすりぬけていく。それも管理職の役割だし、価値がないことじゃないんだけど、自由なスタイルで新しいことをやって成果を出してきた自分からすると、できそうなことがあるのに諦めなければいけない。今後20年、そのマインドで仕事するって、すごい我慢がいるなと思ったんです。給料も上がっていくだろうし、そこそこ偉くなったかもしれないけど、その人生ってなんだろう? と感じたんです」



そういう思いを妻に打ち明けたところ、背中を押してくれた。

「組織のおかげでめちゃくちゃ成長できたし、色々なことができてきた。でも、これからの20年は、組織の中で活動していくことが、素の自分とぶつかる気がしたんです。自分の得意なことを活かしにくくなってきた。だったら、自分の時間を自由に使い、パートナーも自由に選んで、自分の特技を最大限使って活動していった方が、社会に貢献できるんじゃないかと思ったんです」

そして妻に「厚労省の仕事は好きなんだけど、このまま役所に残るとすごい後悔するんじゃないか」と言うと「いいと思う」と即答された。

「どうしても人生を巻き込んでしまうので奥さんに止められたらもう一回考えたと思いますけど、まぁ、彼女がいいって言うならいいやと」

退職し、官僚組織の外に出た現在は、在職中より情報発信の幅も広がった。この11月に刊行された初の著書『ブラック霞が関』では官僚の労働環境の現状を克明に伝えるだけでなく、具体的な提言も行い、国会審議でも取り上げられた。千正さんの体験の記録から、建設的な議論が始まろうとしている。

その一方、独立後は官僚時代に外に築いてきたネットワークから、仕事が始まった。

「ありがたいことに、辞めてすぐに、霞が関の他省庁や国会議員、民間企業、NPO、メディアなどから依頼をいただきました。最初は、官僚時代のネットワークの範囲で仕事が始まったのですが、今では、起業してから知り合った会社の依頼が増えています。コンサルでもメディア出演でも出番をもらった時に相手の期待を少し上回ることが大切だと感じています。組織にいた時は自分の信頼資産は長い間積み上げてきたものだから、多少調子悪い時があってもすぐに評判は落ちない。今はひとつひとつの仕事が勝負です。だから、常にコンディションを整えておくことを意識しています」

新しい道を歩み始めている千正さんが、個人的にやめた習慣は「深夜まで仕事をすること」。基本的には朝7時から午後6時に働くようにしている。一方で、新たに始めたのはジム通い。「役人人生」を駆け抜けた約20年間は、不健康な生活が続いたが、最近では好調と感じる日が多い。独立してからは何の補償もないので、健康と日々のコンディションをよくしておくことが何より重要だ。

今後は、官僚も含めてあらゆる立場の人が持続的に熱意を持って社会のために働き続けられるように、組織の外側からサポートしていくつもりだ。

文=縄田陽介 編集=督あかり 写真=Christian Tartarello

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