大学でも進む「変人」教育 研究所や講座設置の意図は?

東京学芸大学 変人類学研究所 ワークショップの様子


以上のように、各大学における「変人」に関する動きをみていくと、興味深い共通点がある。それは、いずれも変人を人間の本質として捉えていることだ。

変人というと、街を全裸で走り回るような人間や、スティーブ・ジョブズのような天才、世界記録を打ち立てた超人のような人たちを思い浮かべる人が少なくない。だが、各大学において想定されている変人はもっと身近な存在だ。

自分のやりたいことや興味を持ったことに取り組む。その際に、周囲の意見ではなく自分の思いを優先する。その結果、取り組んでいることが、自分のいる社会や集団の中ではマイノリティとして受け取られてしまうが、それでも自分の思いを優先する。そんな「ちょっと変人」たちのことを「変人」としているのだ。

天才や超人を変人だと想定している人たちにとって、そのような変人では物足りないことだろう。だが、それは、変人を別次元の一部の特殊な人々だと考えているからだ。

クローン人間ですら、育つ環境の影響を受けるため、元になった人間と同じにすることはできないと言われているように、全ての人間は「違い」を持って生きている。

その違いは、その時々の社会情勢や、所属する環境などに応じて、「ちょっと変人」になることもあれば、きわめて特異な存在になることもあるだろう。つまり、人間は誰もが変人となりうる余地を持っているのだ。

もちろん、その変人に価値があるかどうかはわからないし、いつその価値を発揮するかもわからない。変人であることはすごいことでもなんでもないし、変人でないこともなんでもない。だが、変人が役に立つこともあるのだ。歴史において、時代の異端者だった者が新しい世の中を築いてきたように。

人間の変人性が偶然化学反応を起こすことでイノベーションが起きることがある。時代を変えることがある。そうした予測不可能性が変人の重要な要素だ。予測できるものをイノベーションと呼ばないことと同じだ。

逆にいうと、現代の過度な正解主義や偏差値偏重主義は危険だ。人々は正しさを追い求め、自分の判断ではなく、他者が決めた判断軸で生きようとする。主体性を放棄し、周囲に合わせることばかりに気を取られる。その時々の合理性や役に立つかどうかという観点で人間が評価され、収斂されてしまう。これは社会にとって極めてリスクのあることなのではないだろうか。

だからこそ、天才や超人という「すごい変人」という既存の価値観にとらわれた存在ではなく、人間の本質である「違い」を背景とした、誰もがなりうる、役に立つかどうかもわからない、すごいのか、たいしたことないのかよくわからない「ちょっと変人」に着目し、そんな存在をいい意味で温かくほったらかしにすることが必要なのではないだろうか。

連載:ニッポンのアイデンティティ
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文=谷村一成

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