「地方で仕事をつくる」人口2000人の離島で起業した男の葛藤、そして信念

東シナ海の小さな島ブランド(アイランドカンパニー)山下賢太氏


京都で気づけた違和感。その地域に生まれ育った人間がやるべきこと


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アイランドカンパニーのメンバー。島外出身者も半数いる

ショックな出来事から、すぐ「地域のために即行動する!」と起業したわけではありません。いつか一人前になって帰ってこよう、そんな思いを抱いて僕はまず進学を決意します。

「合理的に作られた街」と「本質的な豊かさ」の矛盾について考えるようになった僕が選んだのは京都にある大学の「芸術」大学の環境デザイン学科。

通常、都市計画やまちづくりを学ぶには工学部がメジャーです。しかし「いかに人は豊かに暮らすか?」を追究するアートの世界に、僕が取り戻したい島の風景づくりのヒントがあるのではと考えました。

「京都の文化を通じて儲けさせてもらった金は、次の世代、京都の街に再投資していくんや」

これは大学の講義に登壇していた和柄製品を製造販売する会社の社長の言葉です。彼は主軸事業の傍で京町家の再生に携わったり、伝統工芸を守る工房を作るなど、ビジネスで得た利益を京都の街に還元していました。

この彼の言葉と「街並の再生は目的ではなくて手段」という考えに共感した僕は、大学卒業後、新卒として同社に入社。

そこで関わった京都・宮津の景観計画の策定プロジェクト。多くの学びがあったものの次第に違和感を抱くようになったんです。宮津に生まれても育ってもいない自分が、宮津の街の未来計画に関わっていいのか、と。

違和感が強くなるのを感じながら、甑島に帰省した際のこと。実家の近所に住むおばあちゃんに、こう言われました。

「向こうで頑張っているけんちゃんも好きだけど、ここにいるけんちゃんが好きなんだよね」

それまで「まだ一人前じゃないから」と考えていた僕ですが、その一言をきっかけに「何者でもない自分でも、島に居場所があるんだ」と思えるように。半年後には京都の会社を辞め、島に帰ってきたのです。

不安は的中。想いを受け入れてもらえない、孤独と不安


僕が島に帰ると決めたことについて、周囲は大反対しました。

けれど僕は「誰かが応援してくれるからやろう」「仲間がいるからやろう」というタイプではなくて。一人でも行動していくことで信頼が生まれ、自然と仲間は集まってくると考えているんです。

ただ、不安は正直なところ少なからずありましたね。

起業して経営がうまくいくのかという心配以外にも、島に帰ることは何かを諦めたり挫折した結果だと思われるのが自然。ポジティブな受け止め方をしてくれる人が当時は少ない中で、僕がやりたいことを伝えても理解してもらえないのでは、と。

そして不安は的中しました。地方で新しいことをすると、必ずと言って良いほど批判が起きます。それは、新しいこと=これまでのやり方や、行ってきた人の人格否定にまで捉えられてしまうからです。

僕は、自分のやりたいことは過去や人格の否定ではなく、未来への挑戦であるというメッセージを伝え続け、さらに言葉だけでなく行動し続けました。

理解されない孤独もありましたが、「次世代の子ども達にとっての当たり前を作っているから、自分の仕事が生きている間に評価されなくても構わない」と考えることで何とか前に進めてきました。

ここにあるものを生かし、どんな地域であるべきか、そのために自分がやるべきことは何か。当時の僕はただそれだけをひたすら考え、行動することで孤独と不安を振り払っていました。

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文=澤雪子

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