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THE TRUTH


「3年生になっても、試合に出られないかもしれないぞ」

最上級生になり、試合に出られないどころかキャプテンを務めるまでになった岡崎。その後、エスパルスや地元のヴィッセル神戸からオファーが届くことになるが、岡崎は「地元のチームだと甘えが出てしまうので」と将来を見すえて、サッカー王国・静岡での挑戦を決める。

当時のエスパルスは選手層が厚かったことも、岡崎を逆に燃え上がらせた。入団当時のチーム内における序列は8人を数えていたフォワードの8番目であり、長谷川健太監督(現FC東京監督)からサイドバックへの転向を打診されたこともあった。

それでも、岡崎の心は折れない。身長174cm体重76kgと決してサイズに恵まれているわけでもなく、50m走でも7秒を切れない、自他ともに認める鈍足でもあったストライカーを支えたのは「一生、ダイビングヘッド」という異彩の「座右の銘」だった。

いまも胸中に抱いているこの金言を授けられたのは滝川第二高校へ入学する直前。贈り主は中学年代をプレーした地元のクラブチーム、宝塚ジュニアの山村俊一コーチだった。

「宝塚ジュニアではボレーシュートが禁止だったんです。お前ら、カッコいいプレーをするのは10年早いって(笑)。だから、どんなに低いボールでもダイビングヘッド。山村コーチが上げたクロスに、僕たちがひたすら頭から飛び込む。トラップやパスの練習をした記憶がない。なので、どんな高さのクロスに対しても、ファーストチョイスはいまでもダイビングヘッドですね」

当時のグラウンドは土か砂利。しかしゴールネットを揺らせば、恐怖心は快感へと変わっていった。

「地面ぎりぎりのボールをヘディングで押し込もうとして、体中がすり傷だらけで、鼻血なんかもう日常茶飯事で。でも、楽しくてしかたがなかった。これがサッカーなんだと、ずっと思っていたぐらいですから」

そして、時間の経過とともに、座右の銘は現在に繋がるプレースタイルの源泉となる。その象徴がニアサイド(常にボールが近い位置にあるポジション)に定めた主戦場だった。ゴールポストがあろうが、巨躯を誇る屈強なセンターバックが死守していようが、ニアサイドへ頭から突っ込んでいくことに迷いや不安は感じなかった。

「クロスが上がった瞬間に頭から飛び込んで、ちょっと後に『いまのプレー、危なかったかな』と思うことはありますけど、僕の方から身体を投げ出せば決まって相手選手の方が引いてしまうんですよ。恐怖心を感じたことはないですね。鈍感という意味では、他の選手たちよりも鈍感なのかもしれない。僕がちょっとでも躊躇してしまえば、かえってそっちの方が危ないですから」

ニアサイドに飛び込む理由は他にもある。仮にボールが流れた末に、真ん中やボールから遠い位置にあった味方にチャンスが生まれる確率が高くなるからだ。自己犠牲をいとわない精神は、ロングパスや相手のバックパスに対して、我先にと突っ走っていく姿も生み出していく。

走ることは時に徒労に終わることが多い。全力で間合いを詰めては相手キーパーに大きく蹴られる場面が繰り返されても、岡崎は「しんどい、と思ったことはないですね」と言い切る。

「そういう心境に至らないというか、いつかは必ず報われると信じているので、もう身体に染みついているんですよ。それを繰り返して体力がもたないようであれば、もっと走り込めばいいだけのこと。限界を出さなければ次に繋がらないし、手を抜けばいまの自分そのものが存在しないので」

文=藤江直人

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