では外国人観光客にバカウケの、岡田さん十八番のサムライショーは、いつ頃からやっていたのだろうか。珍しく神妙な口調でこう話してくれた。
「あれはもう40年以上前(1977年)、伏見の桃山城で始まった。わしは、外国人旅行客相手に日本文化ショーを企画し、空手や忍者、居合い、お茶、お華、歌舞伎、京舞などの匠たちを呼び集めた。90分間で当時1人6000円の料金を取った。けっこう高いんだが、城の天守閣を借りると、2時間で5万円かかるんだ。これを13年間で1700回やった」
これがジョー岡田の腹上スイカ割り。国内外のTVで何度も披露してきた
ところが、話はちょっと意外な方向に。
「当初、わしは司会進行担当だった。英語のガイドだからね。ところが、ある日、ショーで居合いの先生が誤って自分の手を切ってしまった。そりゃ大変な騒ぎだった。それをきっかけに、今度はわしが居合いをするようになったんだ」
どこで習ったのかと聞くと「最初は、見よう見まねでね。でも、1700回やったから」と言う。筆者が唖然としていると、「まあ、これも人生の裏話」と岡田さんはとぼけるのである。
先輩に憧れて、通訳ガイドに
ジョー岡田こと、岡田逸雄さんは1929(昭和4)年、大阪の生まれ。5歳のときに、父に連れられ、満洲国の奉天(現・瀋陽)に渡ったが、数年後に帰国。中学のときに、学徒動員でゼロ戦戦闘機のプロペラ製造工となるが、B29の爆撃で尼崎市の工場は全滅。半年後に敗戦を迎える。
中学卒業後は、米軍キャンプの雑役夫や消防士などをして食いつなぐ。その後、来日中のアメリカ人農場主夫妻の運転手を務めると、気に入られて彼らに招かれ渡米し、運転手として働きながら夜学で英語を習得する。日本へ帰国後は、3度目の挑戦で通訳案内士試験に合格。そのとき32歳だったという。
「ジョー岡田」と名乗るきっかけは、初めてのお客がジョーさんだったからだと言う。しばらくは藤田観光で専属ガイドを務めたが、40代で独立した。
藤田観光の専属ガイドだった頃(岡田さんは写真いちばん右の日本人)
通訳ガイドになろうと思った理由については、「京都で通訳ガイドをやっている先輩の姿がかっこよく見えてねえ。自分もあんなふうになりたいと思った。いまは亡くなられたけど、高橋さんという方でした。長くお付き合させてもらいましたよ」と語る。
60年近いガイド人生だが、岡田さんはいくたびも荒波を潜り抜けてきたという。