映画監督から、野球チームのGMへ──。
大きな進路変更を決断した嘉数だったが、スタートラインに立つまでが大変だった。嘉数は手始めにメジャーのほぼ全球団に履歴書を送った。だが返信があったのはわずか1球団。ただし「採用は行っていません」というつれない返事だった。
そうこうしているうちに大学を卒業してから一年が過ぎようとしていた。焦りを感じ始めた嘉数は日本の球団にも目を向けた。折しも2005年はボビー・バレンタインが率いる千葉ロッテマリーンズが31年ぶりに日本一になった年だった。バレンタインの自由を重んじるメジャー流の采配に興味を持ち、嘉数は「コネのコネのコネ」を頼ってバレンタインにたどり着く。すると後日、連絡がありニューヨークで会えることになった。
「その年のオフ、ビザ更新のためニューヨークの総領事館に行くので、そこで会おうということになって。総領事館の前に止めた車の中で面接をしてくれたんです。『何をしたいんだ?』と聞かれたので『野球の仕事がしたい』と。そうしたら、球団に推薦しておくよ、と言ってくれて」
当時、バレンタインはGMのような立場にもあり、「推薦」は事実上の内定でもあった。
2006年2月、嘉数は千葉ロッテでようやくキャリアをスタートさせた。
「ボビーの補佐が主な仕事だったので、スカウトの報告書を英語に訳したりしていました。その中で、選手の見方も身についていきました」
そこから3シーズンごと、サンフランシスコ・ジャイアンツ、横浜DeNAベイスターズ、ボストン・レッドソックスと球団を移った。いずれの球団でも球場で年間200試合前後の試合を観戦し、各国の野球を肌で感じつつ、同時に選手を観る目を養った。DeNA時代は15年、ユリ・グリエル(アストロズ)の獲得にも尽力した。
「あのときはワクワクしましたね。1年で6回くらいキューバに足を運んで、向こうの野球にも触れることができたので」
ただし、レッドソックス時代は辛酸もなめた。丸3年間、メジャー移籍を希望していた日本ハムの大谷翔平を追いかけ、レポートを書き続けたが、本人からは面接の機会すら与えられなかった。
「ものすごいお金をかけてプレゼンのための資料もつくったんです。自信もあった。それだけにあのときは頭が真っ白になりましたね……」
ソフトバンクの一員となった嘉数は、私案として3つの「世界一」を考えた。1つ目はワールドシリーズの王者と、日本シリーズの王者が戦う世界一決定戦を開催すること。もう1つは超一流選手を集め世界一のタレント集団にすること。最後は、所属するNPB(日本野球機構)を世界一のリーグにし、そこで優勝することだ。