前述の通り、考えるに、本来「変人」という言葉には価値判断は含まれない。価値のある変人もいれば、価値のない変人も存在する。それは社会や時代の判断基準によって相対的に異なってくるものなのだ。
例えば、「戦闘ゲームが異常に強く、定職に就かずに自宅に引きこもって、日々オンラインで対戦している人」の例を挙げてみよう。少し前ならば、このような人は「引きこもり」の事例として社会問題として扱われていただろう。親は「うちの息子は変だ」と嘆き、近所の人からは「関わらないほうがいい」と疎まれ、典型的ないわゆる価値のない変人扱いをされていた。
だが、eスポーツ市場の拡大に伴い、プロとなると年収1億円を超える者まで現れており、eスポーツプレイヤーを養成する専門学校まで存在する。いまやそのスキルはポジティブに才能として見なされ、いわゆる価値ある変人となっている。
仮に普通からズレている人を変人と考えるとき、「普通」も「ズレ」もきわめて主観的な判断に委ねられるし、相対的なものであることにも注意しなければいけない。人々の普通は少しずつ異なる。そのため、「変人を判断する人が誰なのか」によって、「変人」の対象となる人は変わりうる。
天動説が当然とされていた時代に地動説を唱えて異端扱いを受けたガリレオ・ガリレイだが、彼が現代において地動説を唱えたとしてもきわめて普通の人だろう。また、現代日本において全裸で街を歩くと逮捕されるが、全裸での生活がデフォルトな少数民族の村では、服を着ているほうが変わっているのだ。
「変人採用」における注意すべきこと
こう見てくると、結局、「変人採用」における変人というのは、その企業にとっての価値ある変人、もっと言えば都合のいい変人でしかないのではないだろうか。
かつて、ゲームや広告のコンテンツ製作会社である面白法人カヤックが、2008年に実施した「変人採用」は、「変人の定義があいまいであったため、応募者と採用を考えていた人とのミスマッチが発生」したため中止となっている。
この事象は、きわめて「変人」の本質をついていると考えている。「変人」の定義はあいまいなのだ。少なくとも「変人採用」を行う企業は、自社における「変人」とは何かを主観的に定義し、表面的な価値判断は排除しながら採用を行わなければ「変人採用」は単なる優秀な人材採用に成り下がる。
変人採用は、科学の基礎研究への投資に似ているような気がする。IPS細胞の実用化に向けた研究のように、明らかに社会的意義があると思われる研究がある一方、基礎研究は研究している段階ではどのような社会的意義があるかはわからない。そして、いつ社会的意義が生ずるかもわからない。そして、そこにこそ新たなイノベーションが生まれるのだ。
だからこそ、自社が定義する「普通」からの「ズレ」に着目して、今回採用する人がどんな価値を生み出すのか、それがいつになるのかなどは考慮に入れずに採用することこそが、真の「変人採用」となるのではないだろうか。
連載:ニッポンのアイデンティティ
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