戦後、日本の繊維産業は数々の困難に見舞われ、そのたびに数多の企業が撤退や鞍替えを余儀なくされた。
岐阜県安八町に本社を構える浅野撚糸にも、2001年、存続の危機が訪れた。
7億2000万円という過去最高の売上高を達成してから、わずか2年後のことである。代表取締役社長・浅野雅己が当時を振り返る。
「2000年に入ってから安価な中国製品が凄まじいスピードで国内シェアを占拠し始め、売上高は急落。創業者である父からは、廃業を強く勧められました。でも私は、当社が持つ世界最先端の撚糸技術を未来へ紡いでいきたかった」
事業継続を決意してから程なくして、浅野は水溶性の糸と運命的な出合いを果たす。
──この糸で“オンリーワンの撚糸”を生み出せば、活路を見出せるかもしれない
売上が過去最低の2億3600万円まで落ち込み、銀行からも見放された2007年。浅野撚糸にようやく起死回生の道が拓かれた。
一体どのようにして、再起を図ることができたのか。キーワードは、“オンリーワン技術”と“下請け脱却”。本題に入る前に、まずは浅野撚糸の半世紀以上にわたる歩みについて触れてみたい。
35歳で二代目社長に。就任8年目で21人のリストラを断行
浅野撚糸の本業である撚糸(ねんし)とは、糸に撚り(より)をかける、または撚りをかけた糸のこと。撚りとは、1本あるいは複数本の糸をねじりあわせ、切れにくく強い糸に仕上げる技術を指す。「腕によりをかける」「よりを戻す」といった表現はここから生まれた。
1969年に同社が設立された時、浅野は9歳であった。
数々の構造不況に抗いながら、経営者として生き抜く父の姿を見て育った。とりわけ脳裏に焼き付いているのが、1976年に起こった長良川水害の際の言動だと話す。
「大型台風により堤防が決壊し、買いたての撚糸機器も、糸の在庫もすべて泥水に浸かってしまい、会社の損害は億単位に上りました。家族全員が路頭に迷うかもしれない──暗雲立ち込める中、大黒柱の父だけはとても気丈で。親戚からの電話にも『まぁ、会社は潰れるかもしれないけれど、家族はみんな元気だから。大丈夫』と応対していたんです。
なんとかっこいい、頼りがいのある人なんだろうと心の底から思いましたね」
その後、見事経営を立て直した父。どんな逆境に立たされても、ファイティングポーズを構え、再びリングに立つ──そうした先代のスピリットを受け継ぎ、浅野は1995年、35歳で二代目社長となった。
「就任してまず着手したのは、当時最新技術だった複合撚糸の研究でした。別の素材同士を撚り合わせ、新しい糸を開発していくことが、今後の成長のカギになると考えたんです。私の読み通り、数年後にはゴムと綿糸をねじり合わせたストレッチ糸が大ヒット。1999年には過去最高の売上を上げることができました」
しかし、その翌年から状況は一転。安価な中国輸入品が国内市場を席巻し、会社の売上は減少の一途を辿る。
2003年には、21人のリストラを断行。30年来、社を支えてくれた工場長夫妻もその中に含まれていた。加えて、死守したかった協力工場との契約を25軒から10軒に減らし、延命措置を図った。まさに、苦渋の決断だった。
「全盛期には、社員や協力工場のスタッフ併せて50人規模で行なっていた会議も、数名で済むようになってしまった。事務所もがらんとしていて、10年もしない間に、栄枯盛衰を文字通り体現してしまった」
「いつか社員をこの店に連れてこよう」
妻の一言が“下請け脱却”へと駆り立てた
一方で、浅野はある新規事業に乗り出していた。水溶性糸と綿糸の複合撚糸開発である。
大阪に出張中の浅野が、街中で大手繊維商社・クラレ(現・クラレトレーディング)の看板を見つけ、その場で旧知の担当者に電話したことが発端となった。
「担当の方と7、8年ぶりに会食し、近況報告をしてその場はお開きとなったのですが、数日後『お蔵入りになりそうな“お湯に溶ける糸”を何とかしてくれないか』と連絡が来て。そこからですね、“オンリーワン技術”の開発がスタートしたのは」
これは間違いなく、千載一遇のチャンスだ──浅野は、外回り営業を終えた夜9時から深夜まで連日工場にこもり、ひたすら開発に打ち込んだ。3年の歳月を経て完成させたのは、お湯につけると一般的な綿糸の約1.6倍に膨らむ糸。
「何とかこの糸で、0からプラスの状態に這い上がりたい」、そんな想いを込めて「スーパーゼロ」と名付け、特許も取得した。しかし、糸を有効利用してくれる企業がなかなか見つからず、苦戦が続いた。
2005年。停滞の最中に出合ったのが、三重県の老舗タオルメーカー・おぼろタオルである。意気投合した両社は、即座に「スーパーゼロ」を使ったタオルの開発に取り掛かった。ほどなくしてあがってきた試作品は、おぼろタオルの社長曰く「これまで見たことのない、ふわふわなタオル」だった。
「でも実はこれ、話の行き違いによって生まれたタオルだったんです。
タオルは下地の上にループ状に糸を織り込んで作る『パイル地』のものが一般的なんですが、私は当初その下地部分に『スーパーゼロ』を使い、伸縮性のあるタオルを作りたいと考えていた。しかし、おぼろタオルはパイル部分に使用して開発。結果、柔らかくて吸水性のあるタオルに仕上がったという偶然の産物でした」
品質に手ごたえを感じた両社は、さらに試作品の製造を重ねた。その数が4000枚にまで上った2007年、ようやく転機が訪れた。大手ベビーアパレルの採用が決まったのだ。「これで、他社とも取引ができる」
しかし、どこのタオル問屋を回っても『価格が高い』と突っぱねられるばかり。現実はそう甘くはなかった。
「営業に同行していた妻には、辛い場面ばかり見せちゃって。だから絶対に『もうやめよう』と言われると思っていました。でも彼女は逆に、奮起させるきっかけを作ってくれて。
東京出張の夜、築地の寿司屋に入ったんです。ふたりとも神経を擦り減らせてヘトヘトだったんですが、妻はお寿司を頬張りながら、美味しい、美味しいとずっと笑顔で。そして、ひとしきり食べた後に、『いつか、このお店に社員を連れてこよう。だから絶対にあきらめちゃだめ』と。この言葉を聞いた瞬間『絶対に成功させる』と心に決めました」
浅野はこのタオルを自社ブランドにし、自らの手で販売すると決意。父譲りのファイティングポーズを構え、“下請け脱却”に乗り出した。
ブランド名は、「エアーかおる(Kaol)」。空気(エアー)と、クラレの“K”、浅野撚糸の“a”、おぼろタオルの“o”、そしてLive(生きる)の“l”。3社の技術、そして想いの結晶であることをその名に乗せた。
とんでもない数の無駄と大きな夢で、化学反応を引き起こす
発売から13年。「エアーかおる」はシリーズ累計販売数1000万枚を超える大ヒット商品となった。
「ロゴマークは、寿司屋さんで見せた妻の笑顔をモデルにしたんですが、その後も彼女は貢献してくれています。中でも『洗濯する時にかさばらない、ハーフサイズのバスタオルが喜ばれる』と言った女性ならではのアイデアは、ブランドの名を不動のものにしてくれました。もう、感謝しかありませんね」
2020年4月11日。浅野は、設立50周年記念事業として、本社・本社工場・創業家本宅・日本庭園を含めた旗艦店「エアーかおる本丸」をオープンさせる。新型コロナウイルスの影響による緊急事態宣言が、全国に発令される直前のタイミングにありながら、当初の計画を推し進めた。
並行して動いていたのは、東日本大震災の被災地である福島県双葉町への新工場進出である。福島大学のOBとして、県の役に立ちたいと始めた渾身のプロジェクトだったが、コロナの発生によりペンディングするかどうか迷ったと浅野は話す。
「しかし、緊急事態宣言が解かれてから『エアーかおる本丸』の来場者数が急増。『これなら新工場もいけるだろう』と確信し、再び始動することにしました。
実は63歳になったら、代を息子に譲ろうと考えていたんですが、双葉町プロジェクトという新たな夢ができた今、もうしばらく走り続けることになりそうです。30億円もの巨額な資金を融資してもらったら、さすがに張り合いもでます(笑)」
浅野が肝に銘じているのが、自分よし、相手よし、世間よしの三方よし。それを実現するには経営者として「夢に向かって走りつづけること」が不可欠だと断言する。
「失敗と挫折を繰り返すたびに“ファイティングポーズ”を構え、夢に食らいつくようにして試合を続行させてきました。そんな私たちの姿を見て、ひとりでも多くの人に『もう一度頑張ろう』という気持ちになってもらえたら本望ですね」
2020年10月現在、「エアーかおる本丸」は、平日約1000人、土日で約1500人が来場する新名所となった。
とんでもない数の無駄と大きな夢で、化学反応を引き起こす──そう語る浅野は今年60歳。彼の快進撃はまだまだ続きそうだ。