ディスコ・カルチャー興亡記。いまこそ「栄光なき天才DJ」の記憶を

伝説のディスコと天才DJたちに栄光を(Photo by Unsplash)


ローリング・ストーンズがディスコ・ビートを取り入れた「ミス・ユー」を生んだのは、ミック・ジャガーが「Studio 54」の常連だったことが影響していると言われている。しかしこうしたエピソードを除くと、「Studio 54」の店内でどんな音楽が流れていたかあまり記録が残っていない。

ラジオで流れるようなヒット曲しか流れていなかったとの噂もある。オープンと同時にレジデントDJとして招かれていたニッキー・シアーノは4カ月でクビになったが、それは彼が本来のディスコ・カルチャーから乖離した選曲を拒否したからだといわれている。

そのシアーノの弟子兼恋人だったアフリカ系DJラリー・レヴァンは、ディスコ・カルャー本来の道を突き進んでいくことになる。親友のフランキー・ナックルズと、クラブとサウナが合体したゲイ専用総合娯楽施設「Continental Baths」でDJとしての腕を磨いた彼は、「Studio 54」オープンと同じ1977年にダウンタウンの車庫の2階にオープンした「Paradise Garage」のレジデントDJに就任する。

R&Bやファンクはもちろん、ニューウェイヴから日本の歌謡曲まで分け隔てなくプレイしたレヴァンの選曲は、「The Loft」のデヴィッド・マンキューソのプレイを発展させたものだった。ダウンタウンで一躍人気スポットとなった「Paradise Garage」は、1983年のマドンナのデビューシングル「Everybody」のMVの撮影現場にも用いられている。

一方、レヴァンの親友フランキー・ナックルズはやはり1977年にシカゴのゲイクラブ「Warehouse(ウェアハウス)」のDJに就任する。やがて彼のリズムマシーンやエディットを駆使した独特なプレイは評判を呼び、地元のレコード店が、ナックルズが好みそうな感じのオリジナル曲を「ハウス・ミュージック(ウェアハウス・ミュージック)」と称して発売。やがて英国をはじめとするヨーロッパに飛び火したハウスは、90年代以降、世界中のクラブ・シーンで不動の人気を獲得している。


フランキー・ナックルズによるハウスミュージックの不朽の名作「The Whistle Song」

音楽の「聴かれ方」を変えた彼らの栄光


最後にDJたちのその後について書いてみたい。社会的な成功から背を向けて小規模なパーティでプレイを続けていたデヴィッド・マンキューソは2016年に72歳で亡くなった。ニッキー・シアーノはエイズで友人を亡くしたショックで一時期引退していたものの、90年代末に現場復帰。今も時折イベントなどでプレイしている。

ラリー・レヴァンは「Paradise Garage」が1987年にクローズするとドラッグに耽溺して健康を悪化させ、1992年に39歳の若さでこの世を去っている。

フランキー・ナックルズは2004年にシカゴの音楽を発展させた偉業が讃えられ、「Warehouse」が存在していた通りは「フランキー・ナックルズ通り」と改称された。この改称にはナックルズのパーティでミシェル夫人との愛を育んだ当時のイリノイ上院議員バラク・オバマの働きかけがあったという。なおナックルズも2014年に59歳の若さで亡くなっている。

世界の音楽シーンに影響を与えたディスコ・ミュージックだが、それを支えてきたDJたちの人生は残念ながら、ロックスターやラッパーほど知られていない。しかし楽曲そのものではなく「どんな曲を選ぶか」「どんな文脈で流すか」によって音楽の聴かれ方そのものを変えた彼らの功績は語り継がれるべきだろう。


連載:知っておきたいアメリカンポップカルチャー
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文=長谷川町蔵

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