もちろん、ストイックな人もいなかったわけではありませんが、むしろ自然体で肩に力が入っていない人のほうが多かった。
成功したいとか、有名になりたいとか、お金が欲しいとか、そういう空気はまるでなく、自分の役割を淡々とこなしてきただけだ、と語る人も少なくありませんでした。
目標や夢よりも、目の前の人や生活を大事にする。そうすることが、いまにつながっているというのです。
渡哲也さんは「人生の恩人」
舘ひろしさんも、そんな1人でした。その突き抜けたダンディぶりで老若男女問わず人気を博す一方で、気さくな人柄が、画面を通じても伝わってきます。
刑事ドラマで有名になり、歌手として紅白歌合戦にも2回出場した舘さんですが、実は芸能界に入ったのは、まったくの偶然でした。
生まれは旧士族の家系。名古屋の実家は、かつての尾張藩の徳川家の離れを譲り受け移築したという、築200年以上の武家屋敷でした。厳格だったという父親は医師。舘さんはこう語っていました。
「人生を自分で選択してきた意識は、まるでないんですよ。逆にこうしようと自分で思ったことで、うまくいったためしがないんです。受験に失敗して医者にはなれなかったし、建築士を志すも、それも中途半端。誘われて歌を歌い、声をかけられて俳優をやっていたら、ここまできてしまった」
小学校までは学級委員長を務める優等生だったそうです。成績もほとんどオール5。ところが中学から不良に。
「いじめられたこととかがきっかけだったのかな。人間の怖さや理不尽さを知って不良になった気がするね」
不良に共通する不器用なまでの「感受性の強さ」に惹かれていたと言います。
「これが、実は役者には欠かせない資質のひとつじゃないかと思っているんです。実際、不良出身の俳優は結構多いでしょう。昔はそういう『やんちゃ』を楽しむ雰囲気すらあったしね」
俳優として駆け出しの頃から、若さゆえの生意気さが知られることになります。ところが、多くの大物俳優や監督は、それを受け止めてくれたといいます。
そんな舘さんが、「人生の恩人」と語るのが、8月に亡くなった渡哲也さんです。すでにスターだった渡さんが、当時まだ若かった舘さんに、驚くほど紳士的で、礼儀正しく接してきてくれたことが衝撃だったといいます。
「初めて会ったときにわざわざ立ち上がって、『舘くんですね。渡です』と握手をしてくれた。偉ぶった先輩も多いなかで、とても紳士的で、他の人たちと違うと直感しました。そして撮影が始まって1カ月ほど経った頃、『ひろし、お前には華がある。すごくいいよ』と面と向かって言っていただいたんです」
ちょうど初主演した映画の評判が芳しくなかった頃で、この言葉は本当にうれしかったといいます。その人柄に惚れ込んだ舘さんは、渡さんから石原プロモーションに誘われ、事務所入りを決めたのです。