人々をつなぐ「橋」としての美術。スクリプカリウ落合安奈が描く夢 #30UNDER30

(c)Kotetsu Nakazato


──自分自身で振り返ると、どんな子どもでしたか?

保育園の頃ぐらいは、とてもやんちゃな子ども。その頃から絵を描くことが好きでした。あとは、物語を創って人に聞かせるのがすごく好きだったと親から聞いています。

ちょうど小学校入学前に、日本とルーマニア、どちらで家族が住むのかを試した時期がありました。そのときの、ブカレスト(ルーマニアの首都)での体験がその後の人生にも影響しているのかなと思っています。

当時、父と母が職探しをしているとき、言葉が通じない祖母のもとに弟と一緒に預けられました。私はそれまで日本で育ってきたので、日本語しかしゃべれません。買い出しに連れていかれても、どこに行くのかもわからない恐怖から、弟と泣き叫んでしまった記憶があります。

言葉の壁のほかにも、暮らしに根づいた宗教だとか、挨拶のキスだとか、街の匂いだとか、そんな違いを小さいときに肌で感じたことで、「日本」とは何なのかを考えるようになっていきました。

──チャウシェスクが失脚したルーマニア革命(1989年)はまだ生まれていない世代ですよね。

いえ、実は私ともつながっているんです。革命が起きたことで、私が生まれたとも言えます。母は写真家なのですが、ちょうどベルリンの壁が崩壊したときに日本から東欧へ取材で来て、そこでルーマニアの革命が連鎖的に起こり、覚悟を決めて現地に入ったときに父と出会ったそうです。

──印象に残っているお父さんとの思い出はありますか?

いろいろありますが、あまりいい思い出がなくて……。でも、今は私がルーマニアでもアーティスト活動を広げていきたいと思っているので、そのためにSNSでずっとやり取りしているんです。

国際結婚で、生まれた国ではない国に生きることの困難や、異なる文化・コミュニケーションのすれ違いや摩擦を、家族のなかで感じることもありました。でも、それも含めて向き合っていくことで、自分の作品になっていき、そこから誰かの傷を癒すことにつながったりとか、問題提起になったりしたらいいなと思っているんです。

──SNSのやり取りは英語で?

そうです。英語は得意ではありませんが、アーティストとして今後海外でも展示をしていきたいと思っているので勉強しています。DNA上の父親と子どもであっても、共通言語で会話できない。

完全に誤解なくつながる共通言語を親子関係で持たない状況も、不思議なものだなと思います。こういうグローバル化した社会で生まれた関係の親子がいることに、今後の作品をつくるうえでも、それから人生のうえでも、向き合っていきたいと思っています。


『KOTOHOGI』。日本とルーマニアで、祭りや儀式、風習を撮影した写真を横1 m、縦70 cm、全30ページ、重さが45kgの1冊の大きな本型にしたインスタレーション。ページをめくる体験から、その世界に没入していく体験が得られる。
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インタビュー・構成=神吉 弘邦(Hirokuni Kanki)

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