宮下拓己の歩んだ29年間は、そのままLURRA°開業までの旅路だ。東京西部で生まれ育ち、小中高一貫の高校に通う。父親は同校の生物教師で、生き物の世界へ没頭するタイプ。
母親はとにかくお喋りで、初対面の相手との壁もバンバン壊す。どちらの性格も受け継いだ、と自己分析している。進路を決めたのは高校2年。
「自分のやりたいことを見つけなさい」という両親の教育方針を受けて「表現する仕事」を志したが、買ってもらったギターもすぐに挫折。見切りが早いと語るが、自分でも気づかないまま「才能を客観的に推し量る能力」を備えていたのだろう。後年、これが役に立つ。
あらためて考え、「本を読んだり、人と喋ったりすること」がいちばん好きだと気づいた。手に取ったのは、かつてスペインにあった、世界一予約が難しいと呼ばれたレストラン『エル・ブジ』の本。「料理は五感を使った総合芸術」とのひらめきを得た。
「音楽や空間、建築などが全部レストランにある。自分で思ったことを伝えるのは得意だし、すごい店をつくれたら、トータルで表現する仕事ができるんじゃないか」
同級生のほぼ全員が大学へ進学する中、自宅から自転車で通える辻調理師専門学校へ入学。その後、同校のフランス校に進んで首席で卒業した。 最優秀生に用意された褒賞が、レジェンド『ミシェル・ブラス』での半年間にわたる研修だった。
いきなりの三ツ星レストラン、40人のスタッフ中、唯一の日本人。ほとんどフランス語もわからない。プレッシャーはなかったか。
「僕はたぶん、すごくメンタルが強いタイプ。何を言われてもあまり気にならないんです。怒られた5分後に笑顔でその人に話しかけちゃう。フランスもそういう人が多かった」
国立公園の山中に佇むレストランで春から秋を過ごして分かったのは、どんなに不便な場所でも「そこにしかない個性を出せた店に人は訪れる」という事実。そして「自然を表現する仕事は美しい」という素朴な感想だった。
3年間空き家だった京都・東山の町家建築を改築。間口は狭く、奥行きと天井高がある。宮下は「予算、時間。両方とも想定していた2.5倍かかりました」と苦笑しながら振り返る
蒔絵師だった祖父の仕事を幼少期に見た記憶がよみがえる。多くを吸収しながら、美意識も磨かれた時間だった。
しかし、帰国後の21歳で料理人以外の道へ。「人と話すのが好きで」と人懐こい笑顔で話し出す。
「レストランって、料理をクリエーションするまでの苦しみに比べたら、お客さんが実際はその1割ぐらいしか体験できない。残りの9割を言葉にしてあげる役がしたいなと思い、それを仕事の軸に据えました。自分がリスペクトできる人たちと何かをつくり出したり、彼らにできないことで自分が支えられればいい」
LURRA°の構想が浮かびつつあった。