では、そのなかのどれくらいが「現代アート」について、理解できているだろうか。美術館や展示に足を運んでみてはいるものの、実は現代アートの定義がいまひとつわからないという人が多いのではないだろうか。
特に日本は、メディアで日々「アート」という言葉が多用されすぎている「何でもアート」の国だ。ビジネスシーンでも話題になることの多い現代アートについて理解しておくことは、教養のひとつにもなる。
そこで今回は「現代アートの特殊性」について話してみたい。
現代アートには明確なルールがある
さて、「現代アート」とは何だろう? 誰がつけたかわからないが、そのネーミングによって、大きな誤解が生じているのではないかと思う。なぜなら、現代アートとは、その言葉の意味のまま「今の時代(現代)のアート」を指すわけではないからだ。
つまり、現在に描かれたアートのすべてが「現代アート」ではない。日本画も現代アートに入らない。現代アートとは、アートのジャンルのことである。
スポーツを楽しむためにはルールを知る必要があるが、実は現代アートにも、それと同様に「ルールらしきもの」が存在している。明文化されたものはないが、これから説明していく要素がなければ、現代アートではないと言えるほど、明確なものだ。
1つめは、「オリジナリティ(個性)」があること。現代アートにおいて、類似品は価値を持たない。
2つめは、このオリジナリティを横串で横断する「コンテクスト」があること。コンテクストとは、なぜその作品に意味があるのかを決定づける理由(説明)である。これが作品の付加価値を高めていく。
この「オリジナリティ」と「コンテクスト」の2つがあることこそ、現代アートに必要な最大のルールである。非常にわかりやすい。まずは頭に入れておこう。
「網膜のアート」から「思考のアート」への転換
では、なぜこのような現代アートの「ルール」ができたのか。現代アートが出てきた歴史的な流れについて話しておきたい。
かつてアートは、宗教画を筆頭に、歴史や神話、肖像画や風景などの対象を描いてきた。卓越した技術で描かれるそれらは、記録のすべのない時代において絶大な価値を持っていた。
しかし、1888年に転機が訪れる。カメラの登場だ。コダックのフィルムが映し出した写実性は、絵画の価値を崩壊させた。後に「アートは死んだ」と評されることになった。そして、こうした流れを背景に、1917年にひとつの大きな事件が起きる。「現代アートの始まり」と言われる出来事だ。
マルセル・デュシャンというアーティストが、展覧会に男性用小便器を出品しようとして物議を醸したのだ。
「泉」と題されたこの作品は、男性用小便器にサインを入れただけのものだった。そのため、手数料を払えば誰でも出品できるはずの展覧会で一度はNGになる。が、その後、別の展覧会で展示されると大きな話題に。そしていまでは、現代アートを語る上で避けられない超有名な作品となった。