こうしたエネルギーで惹きつけるタイプのカリスマたちには、同じように何かを渇望したり、人生で失った何かの穴を埋めたいと思っていたりする人たちが惹きつけられ、「渇望ネットワーク」のようなコミュニティを形成することも多い。彼らの持つ欠乏感や渇望感が、他人のなかにある欲のタネを刺激して、自分のなかにどんどん取り込んで大きくしていくのだ。欲が尽きない人に憧れる人がひとかたまりになり、自分たちは「選ばれた」という意識を共有する。
この欲のエネルギーは、俗世的で瞬発的だ。短期的な短い物差しで見れば成功をつかめるかもしれないが、自分の周りを変える力はあっても、後世に残る偉業は成し遂げられないかもしれない。
世の中には、実績もなく何がすごいのかぼんやりしているのに、やたらと人気があったり、熱狂的なファンに囲まれていたりするカリスマがいるけれど、そういう人は大抵その人の「欲」の強さで惹きつけているのではないかと私は考えている。
「欲がない」ことで魅了するもうひとつのカリスマ
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欲というのは裏返せば空っぽで、空っぽだからこそ入れたがる──。そんな欲で惹きつけるカリスマがいる一方、正反対の「欲がないこと」で人々の羨望を集めるカリスマも存在する。先に紹介した哀駘它がその例だ。
哀駘它は、要するに「なにもない」男だ。欲もなにもない。欲に刺激されて欲を呼ぶのとは反対に、なにもなさを周囲に発散する。それを目の当たりにした人たちは、自分のなかの欲が意味のないものに感じられて、欲の世界から降りて、浄化されるような気分になる。そうやってなにもなさで人を惹きつけていくのだ。
「欲がない」「なにもない」という状態は、他人をどうこうしたいとか、あいつに勝ちたい、有名になりたいという欲がなく、ただひとつのことに打ち込み、自分の道をひたすら突き進む求道者のような存在に近いと言えそうだ。大村はまという教育者や、本田宗一郎、井深大も、こちら側のカリスマだと思う。
本物の宗教家もこちらのタイプだろう。釈迦だって、おそらく他人をどうこうしようなどと考えるのはおこがましいという意識だったのではないか。己を鍛錬することに集中し、いかにして悟れるかということしか考えていなかったと思う。
こういうタイプのカリスマたちは、一見地味で目立たないことが多い。しかし、長い時間を経てその業績や成したことのすごさが浸透し、後世になってから名が広まることもよくある。
私が言いたいのは、カリスマには欲で惹きつけるタイプと無欲で惹きつけるタイプの2種類いるということ。そこには、「空っぽ」に入れたがる欲の原理と、すでに「ある」から無欲であるという原理がある。さらに、短期的な物差しと長期的な物差しのどちらで見るかによって、彼らが成し遂げたことへの評価も変わってくる。