アナログな時代には表現やデザインの「レシピ」隠しが成功していましたが、ネットの登場でレシピが広まり、レシピ通りにうまくやる人や、レシピを知った上であえてそこから離れるという人が出てきました。
美大などでテクニックやレシピを学び尽くす傍ら、物語を軽視している人はうまくいかないこともあります。逆に最近は市場や消費者の心情をきちんとリサーチしている人の方が、アート領域でのコミュニケーションが成立しているように思います。美術教育と世間のズレの問題もあるのでしょうね。
──写真という表現や、写真家についてはどのように捉えていますか。
写真家からは、何がなんでも撮らなきゃいけないという使命感を感じます。
写真は被写体がある。写真家にとってはこの世の全てのマテリアルのどこを切り取ることもできる。極端に言うと、何を撮っても成立させることができるところが、うらやましくもあり呪いもあるような。グラフィックや絵描きは被写体がなく、0から1なので。逆に言うと、撮らない、撮りたくないという選択肢はなくて、絶対何かを撮らなきゃいけないという辛さがあるかもしれませんね。
コロナが全世界に広まったとき、ファッションフォトグラファーの巨匠ニック・ナイトが「写真はもう死んだ」と言ったように、写真家が写真からどんどん離脱している傾向に興味があります。
「イメージメーカー」という観点では、写真や映像、ドローイングなど多様な表現で活躍するジャン=ポール グードのように、現実の写真を解体して自分の身体を大きく見せるなど、内面のコンプレックスの衝動から突き動かされている面も興味深いです。
写真家もデザイナーもアーティストも、表現者に共通している点としては、表現をコミュニケーション装置の一つとして機能させている点です。元来コミュ障が故に、非言語領域で対話を試みているのかもしれません。
創造性をもって、社会を「彫刻」しよう
──確かに。何か表現を挟むことではじめて、社会や世界と対話できるんですよね。
感性のままに膨大なインプットをして、表現を通して会話をする。また感性が枯渇したらインプットをしてマグマを沸かせて、アウトプットします。結局、その繰り返しですよね。
ドイツの現代美術家で彫刻家のヨーゼフ・ボイスが提唱した概念で、社会全体を彫刻に見立て、人間は誰でもその創造性でもって、未来に向けて社会を「彫刻」していこうという呼びかけがあります。真に社会を変えていくのは彫刻家=自らアウトプットをしていく表現者なのだという考え方です。
社会彫刻をサボると、秩序が崩壊する。社会彫刻の考え方が改めて、これからの世界をかたちづくっていくのかもしれませんね。
塩内 浩二 | KOJI SHIOUCHI◎アートディレクター/グラフィックデザイナー/アーティスト 1985年 愛知県生まれ。英国のCanterbury Christ Church University留学後、京都精華大学デザイン学部ビジュアルデザイン学科卒。2013年 クリエイティブコレクティブ「CATTLEYA TOKYO /カトレヤトウキョウ 」を設立。アート/ファッションにおける文脈から、独自のスタイルでファッションブランド/ミュージシャン/ビューティー/現代美術の分野へのアートディレクション、グラフィックデザイン、映像制作の活動を展開する。http://cattleya-arts.com