「質量」への回帰。カトレヤトウキョウ塩内浩二に聞く、これからの表現

CATTLEYA TOKYO(カトレヤトウキョウ)塩内浩二氏


──「質量のあるもの」への回帰は僕も感じています。「手の痕跡」という表現もいいですね。質量を持ったアナログなものが持つ物質性の魅力って、デジタルと何が違うんでしょうか。

質量があると、光と影があるんです。光源が自分の視点だから、人によって表情も変わっていくんですよね。形ある作品は受け手に陰影の濃淡の魅力を改めて伝えることができると思います。光の信号であるデジタルは脳への影響は強いですが、スクリーン上の世界だから、影がない。

昔の表現には、質量が必ず伴っていた。そこからデジタル、テックの時代になり、質量のない世界ができた。そしてまた今、人々は質量の伴った表現に焦がれている、そんな雰囲気を感じています。

昔の印刷では写植で印字した文字等をピンセットで切り貼りして、版下の原稿を作成していたのに、Macが出てきて、文字を打っただけで感動して顎が外れていたわけです。

昔のデザインでは、均一な太さの線をひくための描画用具である烏口をうまく使うのに10年は訓練が必要で、デジタルが出てきてそういった作業はショートカットできるようになった。デザインへの参入障壁が低くなった分、本質を見失っているところに危機意識があります。

デザインや映像に長く携わってきましたが、今はもう1回原点に戻っていきたい。弊社はクリエイティブカンパニーですが、スタッフにあえて「デッサンを習いに絵画教室に通いなさい」と勧めています。本当に信念を持って仕事をするために、フィジカルなところに回帰しています。

普通は情報の量が多い方がリッチじゃないですか。確かに情報の量だけを切り取ったら、グラフィック1枚より動画の方が情報量は多いです。だからといって動画がすぐれているというわけではない。

グラフィックは最大限思考した上で、最小限のビジュアルをアウトプットします。背景の情報量や物語も楽しめるんですよね。そしてさらに動画よりリアルなものの方が、エウレカ効果(アハ体験)がある。五感で感じられるし、質量と匂いもあるし、光と影がある。手の痕跡がある。

今の1日の情報量は江戸時代の1年分と言われます。でも江戸時代の方が羨ましいとも思いますよね。情報量はあるけど、物語やエモさが感じにくくなっている気がします。

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アイデアが出尽くしたからこそ「質量」に回帰


──どのように表現を使い分けるべきなのでしょうか。

デジタルかアナログか、動画かグラフィックか写真か、その辺のチョイスは何がいいかではなく、他者とのコミュニケーションがあっての「手段」だと思います。

ですが、やっぱりリアルでないと生み出せない感動やエモさがあると思うんです。ピカソの「ゲルニカ」を見に行くと、画面越しでは知っているはずなのに実際に目にした感動で、前で泣いている人がいるということなんです。五感を刺激し感動を生むのは、やはりリアルですね。

アイデアが出尽くしたと言われる時代だから、エモさや熱量を求めて質量のあるものに原点回帰しているのかもしれませんね。
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聞き手、写真=小田駿一、構成=林亜季

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