幸せの閾値と真のラグジュアリーの関係


幸せの閾値を自在に上げ下げ


30代半ばまでは、高級車に乗ったり、三つ星レストランでデートしたり、海外の一流ホテルで休暇を取ることがラグジュアリーな人生のように感じていた。だが歳を重ねるにつれ、人に見せるためではなく、自分が心地よいと思うものにお金をかけるようになった。上等な麻のシーツとか檜のお風呂とか、一生モノのバッグを買って、壊れても修理しながら使い続けるとか……。

心に余裕がないと真のラグジュアリーにはたどり着かない──。常々そう思っている僕だが、つい先日それを体現している人と出会った。DMM会長の亀山敬司さんだ。

京都での打ち合わせに、なんと新幹線の自由席で来たと言う。「だって、いまガラガラじゃない。そりゃ混んでいるときは指定席を取るよ」「グリーン車には乗らないんですか?」「グリーン車は指定席がいっぱいのときに乗るよ」。聞けば亀山さん、個人旅行はいまだにバックパックだとか。往復航空券以外は全部成り行きで、田舎の安宿に泊まり、同じ宿の日本人の若者と交流したりするのだそうだ。

閾値(いきち)という、生物の反応や興奮が起きる最少刺激値・限界値がある。味覚や嗅覚などにも閾値があって、自分でニンニクを食べているときは、人のニンニク臭さはわからない。それは食べた瞬間に自らの閾値が上がるからだ。でも自分が食べていないときは閾値が低いままなので、他人のニンニク臭がたまらなく臭く感じてしまう。皆さんも経験したことがあるだろう。

僕は「幸せ」にも閾値があると思う。例えば、運転免許の取得直後は運転するだけで幸せだった。やがて中古でもいいから車が欲しいと思い、数年後には海外ブランドの高級車が欲しいと思うようになる。どんどん閾値が上がっていくわけだ。

この幸せの閾値を自在に上げ下げできる感覚があると、それが「竹輪の磯辺揚げ」でも、ものすごく幸せでいられる。うなるほどお金があっても、バックパックひとつで安宿に泊まり、自由席で京都まで来る亀山さんのように、閾値を上げずにお金を使い続けられる人が、真のラグジュアリーなのではないだろうか、と僕は思う。

今月の一皿


小山薫堂が一番好きな食べ物「竹輪」の穴に、コンビーフとチーズを詰めたblankオリジナル「竹輪の磯辺揚げ」。




小山薫堂◎1964年、熊本県生まれ。京都芸術大学副学長。放送作家・脚本家として『世界遺産』『料理の鉄人』『おくりびと』などを手がける。エッセイ、作詞などの執筆活動や、熊本県や京都市など地方創生の企画にも携わっている。

写真=金 洋秀

この記事は 「Forbes JAPAN Forbes JAPAN 8月・9月合併号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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