スポーツ文学 ─ フィクションとノンフィクションの境界線 ─

山際淳司『江夏の21球』を所収するKADOKAWA/角川文庫『スローカーブを、もう一球』. 1985


次は大衆文学としてのスポーツ小説である。
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三浦しをん『風が強く吹いている』(2006)は、漫画化、ラジオドラマ化、舞台化、実写映画化、そしてテレビアニメ化された作品だ。司法試験に合格した秀才、ヘビースモーカー、運動経験のない外国人など、一人の天才ランナーを除きスポーツに縁のない一風変わった学生たちが、格安学生寮で共同生活しながら、箱根駅伝に出場するまでのプロセスが描かれる。


三浦しをん『風が強く吹いている』新潮社(新潮文庫). 2006

・三浦しをん『風が強く吹いている』より抜粋
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「ああ───。走(かける)は立ちすくむ。止めることはできない。走るなと言うことはできない。走りたいと願い、走ると決意した魂を、とどめられるものなどだれもいない。

(中略)

俺はたぶん、走ることを死ぬまで求めつづけるのだろう。

たとえばいつか、肉体は走れなくなったとしても、魂は最後の一呼吸まで、走りをやめはしない。走りこそが走(かける)に、すべてをもたらすからだ。この地上に存在する大切なもの───喜びも苦しみも楽しさも嫉妬も尊敬も怒りも、そして希望も。すべてを、走(かける)は走りを通して手に入れる」
(「三浦しをん『風が強く吹いている』新潮社・新潮文庫. 2006」より引用)

主人公の名は、「走」と書いて「かける」と読む。「走る」という動詞と混同しないように読みたい。こちらは純文学とは異なり、表現の美を享受するという読み方ではなく、エンターテインメントとしてストーリーを追いながら読むのが基本だ。そのため、一部分だけでこの作品の魅力を知ることはできない。ただ、このパートを読むだけで、いくらかはこの作品のもつ勢いを感じることはできるだろう。

フィクションである小説では(時代小説を除いて)、通常、主人公をはじめとする登場人物は架空の存在である。しかし、そこに登場するスポーツはフィクションではない。彼らが小説の中で行うスポーツは、野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール、ラグビー、陸上競技など、現実に行われているスポーツなのである。フィクションとはいえ、架空のスポーツが登場することは、まずあり得ない。そして、スポーツは小説の中であっても、現実と同じルールで行われる。その部分は、「フィクション中のノンフィクション」なのだ。

スポーツ小説に登場するスポーツはリアルだ。現実のスポーツとまったく同じルール、規則のもとで行われている。たとえ小説の中とはいえ、ラグビーでボールを前に投げてはいけない。トライは5点でコンバージョンゴールによって2点が追加される。マラソンはきっちり42.195kmを走り、フィニッシュするまで誰も選手に触れてはならない。

作家が小説を書くときに力を入れるのは、フィクションでありながらいかにリアルな表現をするかである。作品の舞台に選んだ場所が沖縄の島であれば、その島の地理や気候、食文化、暮らす人々の気質などをこと細かに描写する。鉄道殺人事件を描く場合は、何という路線のどのような列車が舞台となり、どこの駅で事件が起こる、など詳細にわたって実際の鉄道が描かれる。もし作家が間違いを描いた場合は、沖縄や鉄道に詳しい読者からのクレームに悩まされることになるだろう。架空の話であっても、リアルな部分はリアルに描く。そこには小説中の最も重要なフィクション部分を「まるで真実のような嘘」にするための効果がある。「フィクション中のノンフィクション」は、正確に記す必要があるのだ。
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文=大野益弘(日本オリンピック・アカデミー理事、日本スポーツ芸術協会理事)

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