スポーツ文学 ─ フィクションとノンフィクションの境界線 ─

山際淳司『江夏の21球』を所収するKADOKAWA/角川文庫『スローカーブを、もう一球』. 1985


フィクションとノンフィクション、とりわけオリンピックにおいて


スポーツには非日常と非現実が内在している。スポーツ文学におけるノンフィクションであっても、多くの場合、主人公は実在の人物でありながら非現実的な速さ、距離、強さ、美しさを実現するトップアスリートである。何も脚色せずともすでに非日常的なのだ。したがって、作家がそれを詳細に描くだけで、十分にインパクトのあるノンフィクションになる。それはオリンピックにおいて顕著だ。

オリンピックが終わるとスポーツ誌を中心に、ルポルタージュ=ノンフィクションが掲載される。実際の出来事を切り取り、そこに強弱をつけたり演出を加えたりしながら描くことで、ノンフィクションは現実のことでありながら、まさに驚異的なインパクトを読者に与える。モチーフであるオリンピックで繰り広げられるパフォーマンスやハプニングが、あまりにもドラマティックであるからだ。

ノンフィクションは「よい素材」と「すばらしい構成・表現」で読み応えのあるものになる。スポーツ・ノンフィクションにおける「よい素材」とは、ただ金メダリストのような世界のトップを紹介すればよいというものではない。その人が途中で大きな挫折をしていたり、何らかの悲劇を乗り越えて優勝するなど、大きな変化があるほうが読者の感動を誘う。

たとえば、1998長野冬季オリンピックのスキージャンプ団体の金メダルは、4年前のリレハンメル大会で、金メダル間違いないという状況で失敗し銀メダルに終わっていたことで、感動がより際立った。

試合中に肉離れのケガを負い、それでも勝った柔道の山下泰裕(1984ロサンゼルス大会)や、残り数秒で大逆転したレスリング4連覇の伊調馨(2016リオ大会)も同様だ。苦労してつかんだ勝利や、起死回生の大逆転などは、すでに感動のストーリーができ上がっているのと同じなのだ。それが非日常的であればあるほど、凄みが増す。

2014年ソチ冬季大会フィギュアスケート女子シングルの浅田真央を思い出してほしい。世界が認める天才スケーターがショートプログラムで16位になるなんて誰が想像しただろう。その浅田がフリーで完璧な演技を披露し世界に感動の嵐を巻き起こしたあの4分間は、まるで作られたドラマのようだった。そんなフィクションのような現実を創り出してしまうのが、オリンピックという非現実的な現実なのだ。

その意味で、オリンピックで競われるスポーツは、フィクションでは扱いづらいテーマである。究極のスポーツの集合体の中では想定外の事件が起こりうる。行われるスポーツそれ自体が非日常的であるだけでなく、展開される出来事が極めてドラマティックであるため、それを超えるフィクションを創造するためには涙ぐましい努力が必要になるだろう。かくして、スポーツ文学においては、フィクションとノンフィクションを分ける境界線は、極めて薄くなる。

フィクションが、トップスポーツの場に出現する非現実的なインパクトを超えるためには、三島由紀夫の『剣』のように、スポーツであるはずの大学運動部の剣道を、殺気みなぎる真剣での斬り合いを彷彿とさせる場面に変えてしまうことや、三浦しをんの『風が強く吹いている』のように、運動経験のない外国人やヘビースモーカーがいきなり箱根駅伝を走ってしまうような、現実離れした状況を作り出すほかはない。しかしそれができるのは、三島や三浦のような力量のある作家に限られるだろう。

それにしてもオリンピックは強烈だ。ドラマが凄すぎて、なかなかフィクションが追いつけない。それはきっと、オリンピックに棲んでいるといわれる魔物のせいにちがいない。

*この記事は、笹川スポーツ財団「スポーツ 歴史の検証」から転載したものです(2020年12月8日掲載、無断転載禁止)。

連載:スポーツ×ソーシャルイノベーションで切り拓く未来

文=大野益弘(日本オリンピック・アカデミー理事、日本スポーツ芸術協会理事)

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