スポーツ文学 ─ フィクションとノンフィクションの境界線 ─

山際淳司『江夏の21球』を所収するKADOKAWA/角川文庫『スローカーブを、もう一球』. 1985

1964年の東京オリンピックは10月24日に閉幕した。その2カ月後に『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』という書籍が講談社から刊行されている。石川達三、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、小林秀雄、武田泰淳、永井龍男、松本清張、三島由紀夫、水上勉、安岡章太郎など、当時の錚々たる文学者40人がオリンピックを観戦し、それを活字で表現したノンフィクション集である。

純文学作家も、推理作家も、評論家も、みなそれぞれの視点で世紀のスポーツの祭典を評価し論じている。一流の文学者にとってあのオリンピックのインパクトが、いかに強烈だったかが伝わってくる。いや、一流の文学者だからこそ、あの大会の質感を迫力ある表現で読者に伝えることができたのだろう。

二度目の東京オリンピックとパラリンピックを前にして、スポーツと文学の関係を今一度考えてみたい。

スポーツ・フィクション


多少荒っぽい言い方をすれば、文学はフィクションとノンフィクションに分けることができ、フィクションはおもに小説を指す。その小説は、芥川賞と直木賞という2つの大きな賞があるからか、純文学と大衆文学に分けられ語られることが多い。その分類についての議論はさておき、まずは純文学としてのスポーツ小説を一遍、その一部を紹介しよう。

三島由紀夫『剣』(1963)はスポーツを扱った数少ない純文学である。自身も剣道の有段者であった三島の独特の美学「男のエロスと死」がまさに美しく表現されている。


三島由紀夫『剣』講談社(三島由紀夫短編全集6). 1971

・三島由紀夫『剣』より抜粋

「剣は居丈高に、彼の頭上に高く斜めに懸つてゐる。それを支へてゐる彼の力は軽やかで、丁度剣は、夕月が空に斜めに懸つてゐるやうな具合だ。左足を前に、右足を後に、彼はひねつた体で、じつと敵に対してゐる。その黑胴は、ぢりぢりと相手に応じて向きを変へるにつれて、沈静な光沢を移し、二葉竜胆の金の紋は、左右へさしのべた鋭い黄金の葉を煌めかす」
(「三島由紀夫『剣』講談社・三島由紀夫短編全集6. 1971」より引用)

これは「剣道」を描いた1963年の小説である。じっくり味わうように読むと、一幅の絵のような情景が浮かんでくるはずだ。

剣道は武道だがスポーツである。しかしここでは、まるで江戸時代の月明かりの夜、真剣で戦う剣豪同士の殺気あふれる姿を見ているような錯覚に襲われる。
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文=大野益弘(日本オリンピック・アカデミー理事、日本スポーツ芸術協会理事)

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