経営者の手腕で日本スポーツ界に寄与してきた半世紀|堤 義明(後編)

学生時代から「スポーツ」と「観光ビジネス」を融合させた発想で、日本のスポーツ観光産業の先導役を果たしてきた堤義明さん。日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の理事や副会長などを歴任し、1989年に日本オリンピック委員会(JOC)が独立した際には初代会長を務め、1998年長野オリンピックの招致、大会成功に大きく貢献されました。

また、西武鉄道や国土計画にアイスホッケー部を創設し、オーナーを務めた西武ライオンズを名実ともにプロ野球を代表とする球団へと導きました。常に先見の明を持ち、豊かな発想で日本スポーツ界の発展に寄与されてきた堤さんにお話をうかがいました。

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西武ライオンズが生み出した プロ野球の慣習


──堤さんご自身は早大の学生時代には「観光学会」というサークルをつくったり、在学中に軽井沢にスケートセンターをつくって人を呼び込んだりと、「スポーツ」と「観光ビジネス」をうまくマッチさせてきたと思います。今では「スポーツツーリズム」(スポーツイベントとその開催地周辺の観光とを融合させ、人々の交流促進・拡大や経済への波及効果などを図る取り組み)という考えも浸透しつつありますが、以前は日本にはそういう概念がほとんどなかった中、堤さんはどのようにしてそのような発想に至ったのでしょうか。

今から50年ほど前、私が学生のころは軽井沢には避暑地というイメージしかなく、夏に利用する別荘しかなかったんです。父親から軽井沢の開発を任された際、どうすれば軽井沢の別荘に夏以外にももっと人を呼び込めるかを考えたんですね。その時に思ったのが「冬の寒さを活かしたものができれば、もっと人が来るようになるのでは」と思いまして、何がいいかを考えた結果、スケート場にたどり着いたわけです。そしたら大当たりで、最盛期には夏にも負けないほどの人が冬に軽井沢に行くようになりました。
ところが、最初はうまくいっていたのですが、そのうちに同じような施設が周りに次々とできてしまいまして、来場者がどんどん減っていってしまったんです。それで若い年代に人気のスケートではなく、もう少し高い年齢層の人たち向けに何かないかなと思いまして、そしたらスキーにたどり着いたと。軽井沢には雪は積もりませんから、それで群馬県の万座温泉のほうにスキー場をつくったわけです。

そうした成功を機に、「スポーツ」と「観光」というものを融合させて考えるようになったんです。もともと不動産を家業とする家で育ってきていますけれども、先代も都心にビルを建てるというようなことよりも、リゾート開発に注力していました。子どものころ、先代についていっていろいろと見ていく中で、その地域にあった「付加価値」を考えるようになったのだと思いますね。それが「スケート」「スキー」「ゴルフ」「テニス」というスポーツだったということなんでしょうね。それとちょうど時代的にも、生活にゆとりが出てきて、スポーツを楽しむようになってきていたということもあったと思います。

──堤さんの功績として欠かすことができないのが、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)です。1978年、経営難に陥っていたクラウンライターライオンズを、西武グループの国土計画が買収し、「西武ライオンズ」が誕生しました。
当時、盟主を自認していた巨人でさえ多摩川の河川敷で練習し、小さなピッチング練習場しか所有していなかった時代に、西武のオーナーに就任した堤さんは、メジャーリーグのドジャースタジアムをモデルとしたすばらしい新球場を建設し、さらに球場付近には第一、第二グラウンドや室内ピッチング練習場、選手寮までつくられました。それに応えて、球団創設3年目の1982年には24年ぶりの日本一を達成しました。

実は、あれほど早く優勝するとはまったく予想していなかったんです。それまでライオンズは最下位が定位置というくらいの球団でしたから、私は日本シリーズで対戦するセ・リーグの6球団もあわせて、11年かけて日本一になればいい、と長期計画で考えていました。ですから即戦力の選手を集めるのではなく、チームスポーツなのだから、個人的な能力よりもチームワークを大切にしてコミュニケーションを図れるような選手たちを集めなさいと指示していました。殺伐とした雰囲気ではなく、みんなで一致団結をして明るい雰囲気で優勝をめざすようなチームづくりをテーマに掲げていたんです。


プロ野球 西武対オリックス戦(1999年/西武球場)
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聞き手=佐野慎輔 文=斉藤寿子 写真=フォート・キシモト 取材日=2020年1月31日

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