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──堤さんを筆頭に、さまざまな方々のご理解とご尽力があって、1989年にJOCが日体協から独立を果たしました。JOCが独立したことが、2年後の1991年に開催が決定した長野オリンピック招致活動の成功にもつながっていったのではないでしょうか。

そうですね。長野オリンピックの招致活動は、面白いご縁がありましてね。当時アディダスの会長を務めていたレネ・イエギさんは、私と同じ早稲田大学(以下、早大)の出身で、柔道部に所属していたんです。実は私の唯一のスポーツ歴は、柔道なんです。父親(堤康次郎、西武鉄道創業者、衆議院議長)が柔道家だったものですから、自宅には道場がありまして、小学生から高校まで柔道の家庭教師に稽古をつけてもらっていました。あの時、柔道ではなく、英語の家庭教師でもつけてくれていたら、もっと賢くなっていたと思うんですけどね(笑)まあ、これは冗談ですが、そんなことで大学入学時には三段でして、早大の柔道部に籍だけは置いていたんです。実際には自分で立ち上げたサークル「観光学会」のほうで活動をしていたのですが、名簿上では私はイエギさんにとって早大柔道部の先輩にあたるわけです。


堤一家。前列中央が父・康次郎氏、後列左が本人

そんな縁があって、長野オリンピックの招致活動をしていた時に、イエギさんが私を訪ねてきまして、IOCのファン・アントニオ・サマランチ会長(当時)を紹介してくれたんです。こちらとしては、これからどのようにして長野オリンピックを招致したらいいか模索していた時でしたので、本当にいいタイミングでした。

その後サマランチ会長と食事をすることになったのですが、そのころ、IOCはオリンピック・ミュージアムの建設を計画していまして、聞けば、総工費が40億円かかると。IOCはその経費を集めるために寄付を募っていて、サマランチ会長は私にも依頼してきたんです。当時の日本は、非常に景気が良かったですし、企業イメージの向上にもつながるだろうということで、総工費の半分を寄付することにしたんです。一口が約1億4000万円でしたから、20口を引き受けました。とはいえ、会社のお金を寄付するわけにはいきませんでしたから、私は個人で寄付しましたが、あとは知り合いの企業の経営者などに依頼し、なんとかお金を集めました。それでIOCは開館に漕ぎ付けたのです。


オリンピック・ミュージアムのオープニングセレモニーで挨拶するサマランチIOC会長(当時)(1993年/ローザンヌ)

サマランチ会長からは大変感謝されました。サマランチ会長自身も個人で何口かを寄付したので、ローザンヌ(スイス)に建てられたオリンピック・ミュージアムに行きますと、寄贈のところに世界中の企業名や団体名が並ぶなか、私とサマランチ会長だけは個人名が刻まれているんです。そういうこともあって、サマランチ会長は長野オリンピックの招致やその他日本のスポーツ界の諸問題について親身になってサポートしてくれたのだと思います。長野オリンピックの開会式の数日前に、IOCの理事たちを軽井沢のプリンスホテルに招待してパーティーを開いたのですが、その席でもサマランチ会長はオリンピック・ミュージアムの建設に関する貢献について謝意を述べられました。

長野オリンピック招致&開催の成功秘話



長野オリンピック招致活動中、千葉から長野までの特別列車の社内にて。右からサマランチIOC会長、吉村午良長野県知事(何れも当時)、本人(1991年)

──1998年に開催された長野オリンピックは、準備段階で環境問題などいろいろなことがありましたが、日本選手の活躍やボランティアの協力などで成功裏に終わりました。

長野県の吉村午良知事(当時)の存在が非常に大きかったと思います。吉村さんはオリンピックを何が何でも招致したいという強い情熱をお持ちでした。というのも、1982年に上越新幹線が開業してからというもの、同じ雪国で昔から肩を並べていた新潟県に、すっかり遅れをとってしまったと感じられていたようなんです。そこで長野県にオリンピックを招致して、新幹線開通をそのレガシーにしたいと考えておられました。実際、オリンピックの開催にともなって長野新幹線が開業し、県民の皆さんは非常に感謝していますし、その後の北陸新幹線の開業にもつながりましたから、富山県、石川県、福井県の方々にとっても大きなレガシーとなりましたよね。

東京オリンピック・パラリンピックにおいても、よく「無駄に費用がかかりすぎる」という指摘がありますが、大会のためだけにかかる費用というのは、主に運営費と仮設施設の費用の2つ。そのほか、スポーツ施設をつくったり、交通網を整備したりするというのは、なにもオリンピック・パラリンピックのためだけではありません。たとえば、長野県への新幹線開通はなにも長野オリンピックのためだけのものではないですよね。オリンピックはきっかけに過ぎないんです。ですから運営費とインフラ整備のためにかかる費用とを混ぜこぜにして考えてはいけないと私は思います。

──長野オリンピックでは環境問題が大きなテーマとなり、アルペンスキーの滑降コースが変更になりました。本来は志賀高原の岩菅山に世界に誇れるコースを新設する計画があったのがとん挫してしまいました。

当時の報道にもありましたが、自然保護団体から反対の声があがったんです。それで白馬村の八方尾根で行われたわけですが、ありがたかったのは白馬の関係者たちが非常に協力的だったことでした。

当初、長野オリンピックのスキー競技の会場は、志賀高原、白馬、野沢温泉の3地域が候補にあがっていまして、白馬はアルペン競技を望んでいました。しかし、アルペンは志賀高原で行うことが決まり、白馬はノルディック・スキーの会場になったんです。それで白馬は、長野オリンピックのために立派なジャンプ台を創設してくれました。さらに、結果的に志賀高原でできなくなったアルペンのほうも急遽お願いすることになったわけですが、気持ちよく受け入れてくれて、白馬の人たちの心の広さを感じました。


長野オリンピックで滑降等が行われた白馬・八方尾根スキー場(1998年)

聞き手=佐野慎輔  文=斉藤寿子  写真=フォート・キシモト  取材日=2020年1月31日

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