ビジネス

2020.09.25

我が社ならGAFAとだって戦える。大日本印刷の華麗なる変身

大日本印刷社長 北島義斉

9月25日発売のForbes JAPAN11月号で、本誌初の試みとなる「AIが選んだ未来の成長企業」を発表する。なかでも事業転換力に優れ、今後の大きな成長が見込まれるとしてAIが導き出したのが、大日本印刷ことDNPだ。

「第三の創業」を掲げ、祖業からの脱却を模索するDNP。貪欲に事業の多角化を進める「攻めの経営」は、世界最大規模の総合印刷会社として新たな地平を開くこととなるか──。北島義斉社長へのインタビューを一部抜粋でお届けする。


「市谷に初めて来たのは小学生のとき。学校の社会科見学で連れてこられました。当時は印刷工場特有の音と匂いがしてね。懐かしい思い出です」

そう振り返るのは、2018年、現会長の父義俊からバトンタッチされて大日本印刷(以下DNP)の社長に就任した北島義斉だ。

市ケ谷駅から牛込方面に坂を上って歩くこと数分。防衛省の北東に広がる一帯には、かつてDNPの巨大な印刷工場があった。当時の社長は、祖父の織衛。学校行事で祖父が経営する会社を訪問したのは、幼心に印象深い体験だったろう。

義斉少年が見た風景は、いま大きく変わろうとしている。DNP市谷工場は、サッポロビールの恵比寿工場移転以降、山手線の内側で最も広大な敷地をもつ工場だった。現在は25階建ての本社ビルを中心としたオフィス地区に再開発中で、かつてパレットが積み上げられていた場所に、いまは都会の中の森をイメージした緑が植えられている。昔の面影を残すのは、前身の秀英舎時代からある時計台くらいだ。

生まれ変わろうとしているのは街だけではない。北島は、「いま我々は、第三の創業の真っただ中にいる」と意気込む。

秀英舎が活版印刷で創業したのは、1876年。1935年、もうひとつの前身である日清印刷と合併してDNPとなる。

第二の創業は戦後だ。終戦を機に先鋭的な労働運動が起きて業績が悪化。倒産寸前まで追い込まれた。危機を乗り越えるため、印刷技術を応用して多角化を進める再建計画を1951年に発表した。以後、パッケージや建材分野、テレビのブラウン管に使われるシャドーマスクに代表されるエレクトロニクス分野に進出して業績を回復させた。

その後も自動車部品や情報処理、飲料など多角化を進め、いまでは売り上げ1兆4000億円、従業員数3万8000人超の巨大グループになっている。

「受け身のビジネス」に未来はない


売り上げは近年安定しており、営業利益・経常利益とも3期連続増益。今期はコロナの影響が見込まれるものの、終戦直後のような経営危機に陥ることは考えにくい。にもかかわらず、なぜいま第三の創業なのか。

「我々は長らく、お客様の依頼を受け、それをもとに製品を開発して提供するビジネスモデルで成長してきました。しかし近年は市場が求める価値が多様化し、お客様自身がどのような製品を作ればいいのか迷われるようになった。そうなると、受け身のビジネスは立ち行かなくなる。これからは我々自身が生活者に近づいて社会課題を見つけ、それを解決する製品を開発していかなければなりません」

これまでも生活者の視点がなかったわけではない。北島自身、出版営業を担当していたころは書店で雑誌を手に取り、リサーチを欠かさなかった。しかし一方で、「わが社は黒子に徹すべき」と、BtoB事業に矜持をもつ社員が多かったことも事実だ。 DNPが事業部制を採っていることも、新しい価値を創出する阻害要因になっていた。生活者に近いところから発想するとしても、各事業部は自身の領域を深掘りするアプローチが染みついていて、新しい市場をつくる意識が欠けていた。
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文=村上 敬 写真=ヤン・ブース

この記事は 「Forbes JAPAN Forbes JAPAN 11月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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