ネット時代に適合した「時間」とは?

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現在のインターネット社会では、国同士の交流の変化が個人のスケールにまで及ぶようになり、ウィキリークスやネットの炎上、トランプ大統領のツイートを見ていれば、世界中の時空の認識方法がネットによって大きく変わったことによる混乱がさらに広がっていることがわかるだろう。

インターネットというどこにあるのかはっきりしない一つの場所で、共通の時間を定めようとするSwatch beatの話はバカげた企業戦略に見えるかもしれないが、世界中の人々が一つの時空の基準でスムースに交流するために、時間を統一するというのは一つの手かもしれない。

もともと暦や時計によって時間を定めようとして人類の努力は、自然現象と人間がどう対するべきかという必要から生じたものだろうが、これは人間が同じ瞬間に同じ場所で助け合うための指標でもあった。社会的動物である人類は、他者とどう協働して生きていくかを模索し続けているが、その基本が同じタイミングで多くの人と何かをすることだ。そうした行動を象徴するような祭りも世界中で昔から行われてきており、近代のオリンピックやワールドカップやコンサートなども、より多くの人が同じ場所で同じ瞬間に力を合わせるという文明が始まった頃からの試みの延長線上にある。

コロナ禍によって感染を避けるためのオンライン化が進んでおり、家にいながら場所を超えて集まり、記録メディアの進歩によってリアルタイムでなくても時間を超えて情報を共有するといった広がりが実現はしているが、時空を克服するという人類の長年の夢はこうした形で本当に解決されていくのだろうか?

マラソン競技やランニングで同じコースを走るランナーは、同時に同じゴールを目指しているから一体化して協働しているとも考えられるが、伴走者がヒモなどで身体間の同期をとって走るブラインドマラソンのような走り方をすると、結ばれた同志がマスの一人ではなく個人間の連帯感を持ち、より深いランニング体験を楽しむことができるという。

いくらデジタル化が進みオンラインで世界中とつながっても、人間は近くの誰かと身体的な関係を同期することで深い連帯感や愛を感じることができるのではないだろうか。まず最小単位ともいえる家族や恋人同士も、ネットで交流するだけでなく、同じ場所で同じ時間を共有して生きることがなければ成り立たない。こうした思いで人類が“時間”を発明したのだとするなら、ネット時代の新たな時間の在り方を、今一度考え直してみてもいいのではないだろうか。

連載:人々はテレビを必要としないだろう
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文=服部 桂

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