いいですか、人生はずっと苦しいんです──水木しげる流「幸福」の求めかた

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そもそも生きていくのは、大変なこと。理不尽、無慈悲、不平等、不公平は当たり前。それを受け入れるところから始めよ──。そんなメッセージを発していた成功者は、実は少なくありません。

戦後を代表する漫画家、水木しげるさんもその1人です。学校の勉強が嫌いでナマケモノ。経済的な事情で夜間中学に学びながら働き、趣味で絵を描き続けていました。そして、太平洋戦争に出征し、兵舎への爆撃で左腕を失います。

復員後は、闇の担ぎ屋、配給の魚売り、アパート経営など職を転々。紙芝居の仕事に巡りあい、漫画家へと転身していきました。

いまなおリメイク版のアニメも放送され、子どもたちに人気の『ゲゲゲの鬼太郎』をはじめ、妖怪漫画の第一人者として、『悪魔くん』や『河童の三平』などの代表作を残した水木さんですが、作品がヒットしたのは、実に、復員後20年も経ってからでした。

オウムのおかげで命が助かった


水木さんは、戦争から戦後までのたくさんの苦労を、私の取材では面白おかしく語ってくれました。

「戦争ではね、水木サン(筆者注:水木さんは自分自身をこう呼んでいた)は運が悪くて激戦地ばかり行かされたんです。なのに、奇跡的に助かった。あるとき10人で前線にいて、水木サンは1人で朝まで歩哨に立っていました。ところが、夜の間に敵が包囲していて、水木サンが戻る時間になったら全滅させようと待ち構えていたんです。そんなとき、水木サンの目に入ったのが、ジャングルのオウムの家族会議でした。これがもうキレイで、楽しそうで」

見とれていて、ハッと気がつくと、歩哨に戻る時間が過ぎていました。すると、遠くでパラパラと音がします。

「銃撃でした。味方は全滅。水木サンは、オウムのおかげで助かったんです。そこからは必死で逃げました。どのくらい必死だったかっていうと、たった2時間で軍靴の底が抜けたくらい。サンゴの中を走ったこともあるけど、たぶん世界記録的な速さで走ったからだと思うね」

戦争の極限状況にいると、生きることで精いっぱいになったそうです。初年兵だから、こき使われて、夜は疲れてあっという間に眠りに落ちました。

「昼間も頭にあるのは、ただ死にたくないという思いだけです。だから、左腕をなくしたときも、絶望したりしなかった。だって、命は助かったんだから。生きているんだから」

生きて日本に戻って来られたときは、「喜び以上の喜びだった」といいます。

「だから、この先どうするか、なんて何も考えていなかった。帰国したら、とにかくメシが食えそうな仕事をするしかなかったわけです。常にたらふく食べることばかり考えていましたね」
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文=上阪 徹

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