川村雄介の飛耳長目

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おおよそ想像したことのないイベントであった。

大阪は千日前の誰もが知っているお笑いの殿堂。6月下旬に、ようやく制限付きの劇場再開が認められた。チケット売り場には消毒ボトルが置かれ、普段は破顔して出迎えてくれる劇場スタッフの表情は、大きなマスクに隠れて見えない。入場口で検温すると、大阪府自慢のコロナ追跡アプリ登録である。

劇場内を一瞥する。ざっと8割の座席が封鎖されている。約800名の定員に対して120名分ほどしかチケットを売っていない。ステージが開くと芸人さんコンビが登場する。さすがに彼らはマスク姿ではない。だが、ふたりの間は背の高いアクリル板で遮られている。しかも、「笑ってください。でも大笑いしそうなときには、微笑みながら拍手をお願いします」。がはは、と笑わない浪速っ子などいるのだろうか。

ショーは静かに終わった。いつもなら笑いすぎて頬が痛くなるのだが、この夜ばかりは、手のひらが痺れていた。食事をしようにも、ほとんどのお店が20時閉店。これが「新しい生活様式」である。

ため息をついて、この日3枚目になるマスクを取り出す。とっておきの布マスクだが、アベノマスクではない。熊本マスクである。

熊本県も、3月に入ると深刻なマスク不足に陥っていた。とりわけ生活困窮者や子どもたちが困っていた。県外からの供給はまったく当てにできない。同時にコロナ禍で就業機会が激減し、収入不足に陥る世帯も少なくなかった。

マスク不足解消と生活支援を一度に実現する方法はないものか。ここで、地元のNPOや財界、金融機関、それに九州財務局が文殊の知恵を出した。

県民にマスク製作を呼び掛けて、1枚500円で買い取る。資金は、財界や金融機関、有志の個人が出す。買い取ったマスクを、困っている人たちに無償配布するのだ。

4月30日にこの構想を発表したときの想定は、製作枚数1万6000枚、製作者数約500名だった。

ところが、10日後に応募を締め切ると、集まったマスク数は48万枚、製作者数は主婦を中心に7500名に達した。6月の学校再開に間に合うように、5月末には配布を終えた。短時日に、パートタイムによる2億5000万円規模の事業が創出されたのである。

付け心地も良い。手作りの温かみを感じるマスクは、デザインも凝っている。これなら、難波を闊歩するヒョウ柄マスクにも負けない。

梅雨空の大阪は、じっと新しい生活様式の二面性を見つめている気配だった。

文=川村雄介

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歴史から考察する新型コロナウイルス後の世界

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