ビジネス

2020.08.25 10:00

29歳で「ホリプロ」子会社の社長に就任した男の半生

ホリプロデジタルエンターテインメントの代表取締役社長の鈴木秀

ホリプロデジタルエンターテインメントの代表取締役社長の鈴木秀

デジタルに特化したタレントを育成するホリプロデジタルエンターテインメントの代表取締役社長に就任した、鈴木秀(すずき・しゅう)氏。中学生でビジネスを始め、大学院時代にはベンチャーからヘッドハンティングされた。しかし、順調にキャリアを駆け上がった先で、ニートやアルバイトも経験することになる。

これからのインフルエンサー業界を牽引する鈴木氏と、TikTokの運営会社に勤めていた黄未来(こう・みく)氏の対談を、前後編にわたって伝える。前編では、鈴木氏の波乱万丈な半生を振り返りながら、ビジネスの原点を探った。


初ビジネスは、14歳で


黄:鈴木さんのユニークなキャリアは、どのように始まったのですか?

鈴木:今でも覚えているのですが、始まりは14歳の7月7日です。あまり裕福ではない家庭で育ち、「どうすればお金が手に入るのか?」と悩んでいたとき、ふと「自分がお金を稼ぐ仕組みを作ればいいんだ!」と気づきました。パソコンはあったので、中国から輸入した物を、自分で作った日本のオークションサイトやECサイトで売ってみようと。それがちょうど七夕でしたね。

黄:その時の売り上げは?

鈴木:多くて、月に約100万円です。直輸入で原価も安いので、販売価格も安くして売っていました。しかも、ヤフーオークションなどのプラットフォームを使うと、手数料を取られるので、独自ドメインで作って、サイト上に手書きのお礼の手紙を流す仕組みにしました。そうしたら、サイト内にファンがたくさんできて、中学生ながら、相当な会員数のいるECサイトになりました。赤字は、一度もなかったですね。

黄:その会社は、どのくらい続きましたか?

鈴木:23歳で事業をクローズするまで、9年くらいやっていました。当時は、どうしても修学旅行に行きたかったのと、母が病気になってしまって頼り切れない中で、自分で稼ぐ仕組みを勉強しようと思っていました。だから、それを起業とは考えていなくて。お腹がすいたら冷蔵庫をあさるみたいに、修学旅行に行きたいならお金を稼げばいいと思って、同じ感覚でやっていたら、たまたま事業が当たったという感じです。

「頭を使って稼げ」


黄:大変だったけれど、家の貧しさから脱したと思いました?

鈴木:僕は勉強や部活、母の看病もしながら、ずっと会社をやって、父も母も頑張ってくれていたので、正直、人並み以上にお金はあったのかな。あと、高校2年生くらいから、少しずつ無形の商材に興味を持つようになったんです。当時、広告が得意になってきていたので、SEO対策とかPVを増やす策とか、そのようなWEBマーケティングをやって、結構お金持ちになりました。

黄:その時って、SEOの概念ができ始めた頃なのに、自分で考えつくなんて、結構ヤバイ高校生ですね(笑)。私も小さい頃から貧しくて、大学時代は手品を披露して稼いでいました。でも、労働集約型なので、無形商材の商売に比べると、たいしたことはなかったですね。

鈴木:転機となったことがあったんです。僕は父親が大好きでしたが、父親はもともとトラックの運転手で、交通事故に遭ってからは、子どもが小さいうちに自分に何かあったらいけないということで、鉄工所で働いていました。それで、小学2年生くらいのとき、父親の手を見て、「手が真っ黒」と言ったら、「この手を見てどう思う?」と聞かれて。

僕は、「すごく努力している手で、かっこいい」と答えました。でも、父親は「そうじゃない。俺は、一生懸命勉強してこなかったから、体で稼ぐしか方法がないけれど、秀は頭で稼げるようになれ!」って。



黄:親からの影響は、大きいですよね。

鈴木:その時は、かっこいい父親が、どうして自分で自分のことをそんな風に言うのか、意味がわからなかったんですよ。でも、たしかに、僕が「勉強したい」と言ったときにお金を惜しんだことは一度もなくて。

だから、ずっと裕福な家庭だと勘違いしていたのですが、実情を知ったときに、家族が僕にしてくれていた投資だったんだと理解しました。手や顔を真っ黒にして働くことも、もちろんかっこいいですが、父親の願いは、僕が頭を使って稼げる人になることだと、中学生の頃にわかった気がします。
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構成=MAAKO 写真=西川節子

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