マクルーハンは、テレビが全世界を同時中継して地球の裏で起きている出来事が場所や時間を超えてお茶の間に届けられ、隣近所の出来事のように報じられるのを見て、世界中が一つの村のようになると表現したのだが、それはまさに19世紀に電信という電子メディアが引き起こした流れが加速したものに過ぎない。
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それをさらに進めたのがインターネットだと言っても、今では異論を唱える人はいないだろう。ネットを開いてちょっとクリックするだけで、近所の話題と地球の裏から宇宙の果ての話題までの現在が一緒に画面に並ぶ。世界のどこもが裏庭のようになり、地球全体が自分の住む村のように感じられる経験は、人類が初めて遭遇するものだった。
人類全体が友人になれるのか
グローバル・ビレッジ(地球規模の村)という表現を聞くと、誰もが矛盾を感じるだろう。何千キロも離れた場所が隣にあり、70億人以上の会ったこともない人々が画面のすぐ裏にいるなどという体験は、過去には神話やおとぎ話の領域に過ぎなかったからだ。
テクノロジーが発達し、AIが人類の能力を超えることが論議されている現在、われわれはかつて夢想した世界を現実に生きるようになった。ピカピカのテクノロジーが流線型の未来を実現すると思っていた近代人は、逆に昔の巨大な村で暮らしているような現実に日々直面している。
そこでは物品交換アプリで物々交換のような取引がなされ、フェイクニュースと呼ばれる噂話や流言が瞬時に世界を駆け巡り、世界の裏の隠された情報が盗まれる。文明化が進んだはずなのに、その結果顕在化したのは、むしろ文明以前の野蛮な人間の姿だった。
その世界は、小さな村のように誰もが誰もを知っていて、困っている人がいれば金銭と関係なく助け合うこともできるエデンの園のような場所にもなりうるが、逆にプライバシーは失われ、理屈の通じない感情の支配する野蛮なカオスにもなりうる。
インターネットは、テクノロジーの必然としてできたというより、(以前にも紹介した)ダンバーが発見した、人が他人を150人ほどしか把握できないという能力の限界を打ち破り、ミルグラムのスモール・ワールド現象を使って、ちょっとクリックするだけで、70億人以上いる同胞にアクセスし、ひょっとしたら全人類が「友達」になれるかもしれない、という人類の見果てぬ理想を引き受ける装置なのかもしれない。
人類を他の霊長類と分けるのは、火の使用や言葉、テクノロジーであるとされるが、人類学者は、他者の心を思いやり、他者の先につながっているより大きな仲間の行動を想像する能力だとも言う。70億人とただネットで直接つながるだけでなく、その先にいる仲間の心をどれだけ理解し合えるかが、次の大いなる課題となるだろう。
マクルーハンは「水を発見したのは誰か知らないが、魚でないことだけは確かだ」という格言をよく引用し、われわれはメディアという見えない水の中で暮らしている魚のような存在で、漁師に捕まって水から出されて初めて水の存在を意識できると説いた。
火星から撮られた一枚の写真は、地球というグローバル・ビレッジの水槽から突然われわれを釣り上げ、われわれの意識の外からわれわれの本当の姿を見るように促す、まだ見ぬ火星人から届いた覚醒を促すメッセージのようにも感じられた。
連載:人々はテレビを必要としないだろう
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