井本記者が別の専門家からもらったコメントは、はっきり言って全く〝使えない〟内容だった。
メール本文には「個人的には殺人をしていてもおかしくないと思うとのこと。途中で患者さんが来たため打ち切りとなり、深くは聞けませんでした」との〝ただし書き〟があり、添付ファイルを開くと、以下のコメントがあった。
「衝動的になってやった(=殺した)のかもしれないですねえ。衝動が一瞬のもので、例えばその直前に周りからバカにされたりとか、プライドを傷つけるようなことが前後にあれば、急に衝動的にやってしまうことがある」
お手上げ状態だった。
衝動的な犯行は、警察が当初描いたシナリオだが、チューブを外したときにアラームが鳴らないよう複雑な操作が必要なため不可能と分かり、消えたもので、そのために警察は計画的な犯行を強引にでっち上げた。前提となる事実を把握しないままに語られた「衝動的にやったかも」というコメントがまったく意味を持たないのは言うまでもない。
事件の全体像や詳細を把握していない専門家からコメントを引き出し、虚偽自白のメカニズムを解こうという自分の想定の甘さを思い知るしかなかった。取材は完全に行き詰まってしまった。
膨大な裁判資料を私たちと同じように読み込んでくれる専門家を探し出そうにも、すぐにはアテがなかった。
新聞記者から精神科医に転身した「小出君」の存在
途方に暮れてしまった私を救ってくれたのは、新聞記者から精神科医に転身していた小出将則君(58)だった。
1984年4月に私と一緒に中日新聞に入社した「同期」の間柄で、ここでは「小出君」と呼びたい。入社7年後に退社し、信州大医学部に合格し、医師になって既に20年近くたっていた。その間も愛知県内に住む彼とは、時々連絡は取り合っていた。
思い出深いのは、安倍晋三首相の第1次政権時代のこと。閣僚の辞任ドミノが起きた2007年の参院選の渦中に私は「坊ちゃん宰相」という連載企画を始めた。そこで小出君に安倍首相の心理分析をしてもらい、そのコメントが紙面に掲載されたこともあった。
実は、協力を頼みやすい彼こそが西山さんの件でも最も妥当な判断を下せる専門家であることに、その時点でも私は気づいていなかった。精神科医の彼が発達障害の患者も専門に診ていることを知らなかったのだ。
その時に電話した目的は、裁判資料にも目を通してくれて、かつ無報酬でも協力してくれそうな専門家を紹介してもらうことだった。それが彼をおいて他にいないことに、なぜその時まで気がつかなかったのかは、今でも不思議である。
電話越しに、久しぶりに声を聞いた彼に私は単刀直入に「ちょっと困ったことがあって、相談したいんだけど、いま大丈夫かな」と切り出した。人の良い小出君は「ああ、診察中だけど、手短になら。何?」といつものように気さくに応じてくれた。