ラブドールは「表現の自由」か? 人形研究者が考える表現規制の現在地

一見すると本物の人間と見間違うほどの精巧さの人形を作ることは、現在のテクノロジーで可能だ(Getty Images)


『ラースと、その彼女』にみる人形のメディア性


菊地によれば、映画『ラースと、その彼女』(2007)はラブドールと社会の関係を考える上で重要な作品だ。本作は、インターネットで注文した等身大のラブドールとの恋愛関係に没頭する青年ラースと、彼を取り巻く町の人々の人間模様がユーモラスに描きだされた人間ドラマだ。人形との恋愛という型破りな設定が話題を呼び、第80回アカデミー賞脚本賞にもノミネートされている。



「『ラースとその彼女』の原題は‘Lars and the Real Girl’なんですけど、この映画は「人形をめぐるリアルとはなにか?」という問題を扱っている作品だと思うんですね。主人公のラースは良い人なのだけれども、とても内気な性格で兄弟とさえうまくコミュニケーションを取ることができない人物です。

 そんなラースがインターネットで購入した人形のビアンカと真剣に恋愛し始めるのを見て、最初は街の人々も気味が悪いと感じます。でもその恋愛を見届けるにつれて、皆がラースの人柄について深く知ることができるようになっていき、またラースの方も街の人々の優しさに気がついていくという物語なんです。私は人形文化を考える上で常々『人形はメディア』であるというように考えているのですが、この映画に出てくるビアンカはまさにラースと街の人々を媒介するメディアとして機能しています」

 真剣に恋愛をするといっても、相手のビアンカはラブドールなので当然しゃべることも動くこともできない。だとすれば多くの人は、そこで行われるやりとりは所詮「おままごと」のような偽のコミュニケーションに過ぎないと思うかもしれない。しかし『ラースとその彼女』には、そのような常識とは逆のことが描かれている。

 人間に対しては内気になってしまうラースでも、人形であるビアンカに対しては不思議とリアルな気持ちをさらけ出すことができた。物語が進むにつれて、街の人々はラースがビアンカと「交際する」様子を通じて彼の気持ちを深く理解していくのだが、もし街の人々が人形に恋するラースの振る舞いを認めず、「精神科病院に隔離する」とか「ビアンカの存在をなかったことにする」という選択肢をとっていたなら、彼らはきっと最後までわかりあうことができなかっただろう。

 またラース自身が街のコミュニティへと開かれることができたのも、街の人々がビアンカに対して親切に接するのを通じて、彼らがラースに対して抱いている「優しい気持ち」に気がついたからである。このような交流は決して偽のコミュニケーションとは言えないだろう。ラースにとってはビアンカの存在が「リアル」だったということを、街の人々がきちんとが受け止めたということは、人形というメディアを介したひとつのコミュニケーションなのだ。菊地は次のように語る。

 「所詮は映画の話だと思うかもしれませんが、実際にもラースと似たような感情をもつ人はいるようです。ユーザーのなかには『最初は性的な目的で購入したけれど、今では一緒にお茶を飲んでいます』という人もいるみたいで、これは興味深いことだと思います。また結婚後に障がいを持つことになってしまった妻と円満な関係を保って行くうえで、自分の性の悩みが躓きになってはいけないとラブドールを購入する人もいるそうです。ラブドールのユーザーたちが抱えている背景は多様であり、彼らの想いに考えをめぐらすことは無駄ではないと思います」
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文=渡邊雄介

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