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武漢や欧州からきた第1波、第2波をなんとかギリギリのところで日本が抑えることができたのは、全国に約470か所の保健所と約8000人の保健師が残されていたことと地方自治体の位置づけが高められ、その下で国民の理解と協力があったからです。

またコロナ対策を指揮できる人材がいたこともあります。日本の専門家会議のメンバー(編集部注・6月24日に助言組織を変えることを政府が発表)の尾身茂医師や押谷仁医師は、一般的にマスコミや学術界が取り上げる有名な欧米の研究者が評価する研究者という側面よりむしろ現場で鍛えられてきた実務的な専門家と言えます。2003年にSARSが中国南部で発生し、香港やベトナムに広がりました。これは新しい感染症であるとして最初に報告したのがベトナムに駐在していたWHOのイタリア人カルロ・ウルバニ医師でした。彼はベトナム政府にWHOの職員の受け入れを認めてもらい、そこに駆けつけたのが中国駐在のWHO職員の押谷医師でした。そのときのWHO西太平洋事務局長は、尾身医師でした。

日本の保健所と保健師の存在が残されていたことが幸いでした。結核は、明治中期から増え、戦後まで実に40年間毎年10万人以上の死亡者を出していました。現在も毎年2000人ほどが亡くなっています。その長い苦しい闘いから日本独特の結核対策が必要となり生み出されたのが保健所と保健師だったのです。戦後は、GHQが民主主義と国民主権の体制を持ち込み、結核が減っても公衆衛生の重要性が浸透し、保健所が辛うじて残されてきました。

SARSと闘った専門家と実務を担う保健所とがシンクロして対応することが早期からできたのです。そして、クラスター対策を行う中で日本独自の三密対策というコロナ流行阻止戦略が生み出されました。

日本のコロナ対策は、できることは何なのか、使える組織と人材は何があるのか、ということを考えた現実的な対策として進められ、決してあらかじめ法律に基づいて準備された対策ではなかったのです。このことを専門家会議が問われましたが、新感染症ではこのことで命運が決まることになります。

構成=岩坪文子 写真=井上陽子

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