一方で、ベルリンにきたことで、自分の音楽性そのものが大きく変わったかというと、そうではないと思います。指揮とは、どちらかというと音楽性をどう伝えるかという部分の比重が高いと思っているのですが、それまでは自分が持っているものを思うように伝えることができていなかった。ベルリンでは、その伝達方法そのものを学びました。
人とのコミュニケーションとのとり方。オーケストラと音楽をする上では、やはりそこが一番大事です。結局のところ、指揮とは人とのコミュニケーションを突き詰めるというプロセスであり、そのプロセスに直接的に触れられるようになったと思います。
コンクールやマスターコース、ベルリンの大学で出会った人たちには、自分よりもすごく芸術的な発想が豊かであったり、生まれながらに高い素質を持っている人は山程いますが、その人たちが必ずしも目に見えて活躍をしているわけではありません。
逆に、あまり中身があるとは思えないのに凄そうに見える人もいっぱいます。もどかしいですが、見せるのが巧いんですよね。ただ指揮者においては、コンクールで華々しく賞を獲ったとしても、そういう人は結局長続きしません。
自分はどちらにもなりたくなかったし、また、どちらかだけでもダメだと思っています。(指揮者として音楽性を)大げさに表現することは、日本においては恥ずかしさのような感覚があったのですが、それは自分を偽るという行為ではないと腑に落ちてからは、本当にいろんなことが伝えやすくなりました。それでもタクトを振るときに髪を振り乱したりまではしないですけどね(笑)。
ベルリン・フィルハーモニーのコンサートホール(vasi2 / Shutterstock.com)
演者は「音楽至上主義」で
音楽の世界に限らず、昨今、有色人種や女性を重用しようというトレンドがありますが、世の中の雰囲気ほどそういうことが進んでいるわけではない印象ですね。日本人の小柄な女性が、ヨーロッパで通用にするようになるには、無論、まだまだいろいろなハードルがあります。
とはいえ、そのトレンド自体が少し行き過ぎだと感じることもあります。ニューヨーク・フィルはオーディションにおいて公平性を保つために候補者をブラインド審査してきましたが、ニューヨーク・タイムズの著名音楽批評家は、「それでも変化のスピードが遅く、音楽性が同じレベルなら黒人や女性を合格させるべきだ」と主張しています。しかし、演者に関しては、基本的に音楽至上主義であるべきで、女性や有色人種だからという理由で重用する必要があるかは疑問です。
ただ、いわゆる選ぶ側にいる人たちに関しては、一定の年齢以上の白人男性ばかりではなく、多様な人種、性別、年齢の人がいるべきだとは思います。