ジャクソン5を生んだ音楽レーベルの「型破りなヒットの法則」

創業60周年を迎えたモータウン。数々の一度は耳にしたことのあるポップな音楽と、トップアーティストを世に送り出してきた。(Photo by Getty Images)


デトロイト暴動で崩れたバランス マーヴィン・ゲイの快挙


しかしそのバランスが1967年に崩れはじめた。無許可酒場の摘発をきっかけに黒人街で大規模な暴動が発生し、デトロイトが火の海に包まれたのである。ことの次第はキャスリン・ビグロー監督作『デトロイト』(2017)に詳しい。

このデトロイト暴動をきっかけに、モータウンは拠点を徐々にロサンゼルスに移しはじめた。ダイアナ・ロスのハリウッド進出やジャクソン5の冠番組オンエアは、ロサンゼルス移転がなければ実現しなかった快挙だろう。

だがその一方で、作詞作曲の要だったホランド=ドジャー=ホランドが自分のレーベルを地元デトロイトに設立するために、モータウンを離脱。彼らのほかにもマーサ・リーヴスやフォー・トップス、グラディス・ナイト・ザ・ピップスといったアーティストがロサンゼルスへの“転勤”には応じず、別のレーベルに移籍してしまった。

マーヴィン・ゲイが『ホワッツ・ゴーイング・オン』をレコーディングしたのは、ヒッツヴィルUSAがもぬけの殻になっていたこの時期にあたる。彼はファンク・ブラザーズを勝手に招集して、自分の理想通りにアルバムを仕上げてしまったのだ。それだけでも同作は十分掟破りの作品だったが、それ以上にゴーディをたじろがせたのは歌詞だった。ベトナム戦争の帰還兵、環境問題、そして都市の空洞化といったシリアスなトピックが切々と歌われていたのだ。

実はこの時期、すでにテンプテーションズはドラッグやホームレス問題を取り上げたメッセージソングをヒットさせていた。にもかかわらずゴーディは、マーヴィンがこうした曲を歌うことには強く反対した。

『メイキング・オブ・モータウン』での様々な人物の証言を見れば理由がわかる。マーヴィンは超絶イケメンだったのだ(ライブでバックコーラスを務めたヴァンデラスのメンバーは「顔が良すぎて仕事に集中できなかった」とまで語っている)。ラブソングさえ歌っていれば安泰だったはずのマーヴィンがスターの座から転落する。ゴーディはそれを何よりも恐れていたのだ。だがゴーディの懸念は覆され、『ホワッツ・ゴーイング・オン』は大ヒットを記録した。

同作の大ヒットで70年代の扉を開いたモータウンは、1972年のロサンゼルスへの本社正式移転後も、ライオネル・リッチーがメンバーだったコモドアーズやリック・ジェームズ、デバージといった新たなスターを生み出していく。しかし移転の描写と同時に映画は終わっている。


マーヴィン・ゲイ「What’s Going On」は、モータウン創業60周年企画の一環として2019年にMVが制作された。半世紀近く前に発表された同曲は今なお色褪せることのないメッセージ性をもつとして、現在でもアメリカのアンセムとして語られる。

理由は明白だ。マーヴィンに呼応するかのように、スティーヴィー・ワンダーもセルフ・プロデュース権を獲得して自分自身の音楽を奏ではじめた。マーヴィンとスティーヴィーは70年代を通じて競うように傑作をリリースし続けたが、ふたりの音楽は全く異なっていた。またファンク・ブラザーズの多くがデトロイトに留まったために、プロデュース権を持たないアーティストの作品からも独特のモータウン・サウンドが聞かれなくなった。モータウンは普通の大手レコード会社に変質してしまったのだ。

しかし会長在籍時はもちろん、モータウンから去ったあとも、ゴーディはこの変質を「会社の成長だった」と主張し続けた。それを今作で事実上撤回したのは、90歳を迎えたのを機にショービジネスからの引退を決意したからなのかもしれない。

考えてみれば、ほかのスタッフやミュージシャンより年上とはいえ、ゴーディは1960年代にはまだ30代だった。あの時代のモータウンの魔法のかかった音楽は、「サウンド・オブ・ヤングアメリカ」であると同時に、「サウンド・オブ・ヤング・ベリー・ゴーディ・ジュニア」だったのだ。

文=長谷川町蔵

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