リサイタル終了後、いつものように楽屋前にお客さんの列ができた。「今、この瞬間ほど音楽や芸術のありがたみを感じたことはなかったわ!」と目に涙を浮かべ感謝を伝えに来てくれた高齢の英国人女性がいたが、正直、私も同じ気持ちだった。
また、穏やかな微笑を浮かべた初老の英国紳士は、「このところ不安と緊張で眠れず家内も私もずっとふさぎ込んでいたが、貴方の奏でる音楽に元気づけられ、ポジティブな気持ちになった」と言ってくれた。私はこうした多くの心優しい言葉に励まされ、幸せな気持ちになった。
コンサート後にいただいたカード
列の最後に待ち受けていたのは、齢70代後半のがっちりした強面の英国人男性で、ひときわ異彩を放っていた。その老人は私の手を強く握ると、そのまま私を睨みつけ、低い声でゆっくりと厳かに語り始めた。
「俺の親父はなあ、ビルマ戦線で日本軍の捕虜になって酷い扱いを受けたんだ。60キロ以上も痩せて骨と皮になって英国に戻ってきたよ。だから、その憎しみは強烈で、死ぬまで日本人を怨んでいた。俺はそれをずっと聞かされて育ったから完全にその遺伝子を受け継いでいる。お前さんのコンサートを聴きに行こうという妻の誘いを前回は断ったけど、今回は友だちにもしつこく誘われたから、断れなくて嫌々聴きに来てやったんだ」
私はなんと答えてよいか分からず、黙って老人の話を聞くしかなかった。
「でも、たった今演奏を聴いて妻の誘いの意味がよく分かったよ。お前さんのおかげで日本人のことが初めて好きになったぞ! ありがとう!」
そう言って老人は最後に微笑み、ウインクすると静かに去って行った。
私は言葉を失い、しばらく呆然とそこに佇んでいた。稲妻に打たれるような強烈な体験で、今でもその雷鳴は心に木霊している。
乗客には戦争経験者も多くいた。13歳の時に体験したドイツ軍による空襲について語ってくれた英国ボルトン出身の男性ロイさん(90歳)ご夫妻
我々は「目に見えない」ウイルスに恐れ慄く。しかし、“音楽の父”J.S.バッハが「風は見えないが風車は回るように、音楽も目に見えないが、心に響き、心を動かす」といみじくも言ったように、音楽は人種や宗教、文化の壁を超えて人の心を溶かし、時として、人の価値観や私たちの人生までも変えることができるのだ。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』(岩波少年文庫、1953年)の中には、「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」と、キツネが王子さまを諭す場面がある。
我々は、アートや音楽を、経済や感染者数ほど容易に数値化したり、可視化することはできないかもしれない。しかし、アートや音楽を単に目で見て頭で理解するのではなく、かつて人類がしていたようにじっくりと「心で感じ」、全身全霊で「音を楽しむ」ことができるのだ。そのことが何よりの福音ではないだろうか。
連載:心で感じ、魂で奏でよ!
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