全米150万部ベストセラーが日本の「編集者泣かせ」だった理由

世界的ベストセラー作家マルコム・グラッドウェル最新刊(日本語版)『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』


たしかに、この事件の前年に黒人への警官の差別的行動が問題になり、Black Lives Matter運動が巻き起こり、そのうねりは今日にも続いている。遠く日本から見ると、残念ながらこのサンドラ・ブランド事件もアメリカではありふれたことに思えてしまうのだが、グラッドウェルはそうではない、と言っているのだ。では、差別でないのなら、グラッドウェルは何を解き明かそうとしているのか。

担当編集者の名前が刷り込まれた校正刷り


さて、本書の原稿(つまり原書刊行前の校正刷り)を受けとったのは、2019年の春だった。世界的ベストセラー作家の作品ともなると原稿の管理は徹底している。私が受けとった原稿PDFの背景には私の名前(Mr. Ichiro Ozu)がウォーターマークとして薄く、しかしデカデカと刷り込んであり、このPDFが流出すれば流出元がすぐわかるようになっているのだ。苦笑しながら読み始めたが、しばらくして途方にくれてしまった。

編集者は一人でいろいろな作業をするが、「それが何の本なのかを明確にする」という種類の作業群がある。

まずは上司や同僚にそれがどんな本か説明しなくてはいけないし、書店ではどこの棚に置かれるのかも想定しなくてはならない(「アメリカの時事問題」の本なのか、それとも「社会学・心理学」なのか)。オビはどう書くか。新刊案内の100字のスペースにはなんと書くか。50字なら? 本を紹介するためには何らかの「切り口」が必要で、それがないと本づくりは一貫性を欠いて、空中分解してしまう。

「これは◯◯の本です」と言えない苦悩


だが、原稿を読み進めて思ったのは、本書を一言で何の本だ、と言うことは非常に難しい、ということだ。自分の読解力がないだけなのかもしれないが、確かにある種の傾向は認められるものの、一つの「切り口」からのみ本書を語るのは不十分に思える。

実際、冒頭で述べたように、根深い人種差別の話なのかなと思いきや、著者グラッドウェルの筆は、あえて人種差別の話題からは距離を置くように進んでいく。人がいかに他人にあっさり騙されてしまうか。われわれはなぜ他人の表情を読み取ることが難しいか。アルコールが入ると人はどうなるのか。有名詩人の自殺はさもありなんと思われていたとおりだったのか……。ふと気を抜くと、当初の黒人女性の事件と何の関わりがあるのかわからなくなってしまう。

グラッドウェルはいったい何を語ろうとしているのか。
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文=小都一郎

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