コロナと人類の終末──「生煮えな世界」で見えてくるもの

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一方で、これまでの多くの「終末」作品はある意味でパターン化しており、一体感をもって進んでいく、というようなメインモチーフを持っていた。そして読者のほとんどは、そこで描かれる、世界がひとつに溶け合っていくような風景を脳内でイメージすることに「一種の心地さがあった」のだが、松丸氏が言う現在の「生煮え」な状態は、まずそうした風景は起きにくく、描きにくい。

日々の生活を続けるためのトロッコ問題的なテーマが人々の「頭の中」を支配してしまった以上、もはや物語の入る余地はない。『復活の日』や『アンドロメダ病原体』でもそうだが、致死的な要素がドラマになるのであって、新型コロナウイルスの場合、そこまでとはいえない。

しかし上田氏は同時に、「今回のパンデミックの『生煮え』という部分に対して見方を変えてみると、エンターテインメントっぽくはないが文学っぽくはあるのかもしれない」とも話す。

距離をとったり、家から出ないようにしたりはするが、実際には何が効いているのか分からない──その感覚は、確かに文学的ともいえるかもしれない。

芸術とは「日常の中に自然を取り戻してくれるもの」


森氏はこう問う。「かつて私たちの祖先は、『理解できない生態』に対して擬人化して当てはめることにより、理解しようと試みました。それと同じようなモチベーションを、作家の方は現在のパンデミックに対して抱いているのでしょうか?」。

これに対し、上田氏は次のように答える。「(今回のパンデミックは)何か神的な大きなものの意志によって起きたように捉えるということも可能だと考えます。しかし、それは単純に科学的には肯定できない。ならば逆に、いったんは、あたかも『神の意図があった』というようなところにあえて落とし込んで物語り、その上で否定するにはどんなやり方があるかなというアプローチで考えてみたいという気持ちはありますね。ねじくれてますが(笑)」。

確かに、いったんは神の摂理、と納得してみてからあえて否定する、そういうことでまた違った視点が見えてくるかもしれない。書き手が提示した「世界の切り取り方」を解釈し、読み手にとってその解釈がどれだけ腑に落ちたか、場合によっては今後の人生観が変わり、より豊かなものになったかというところまで踏み込めることに、小説の意義がありそうだ。

そういった意味で、小説含め芸術とは、「日常の中に自然を取り戻してくれるもの」と捉えることができる。これまでシステマティックな社会の中で生きてきた私たちにとって、「生活の中に自然を取り戻す」作業を自分でやるのはかなり大変で、それを代わりにやってくれるのが作家という存在だ、と松丸氏は話す。

そして、「機械的な世界に自然を取り戻した出来事」という点では、コロナもまた、社会に芸術と似たような役割を果たしているのではないだろうか。
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文=長谷川 寧々 編集=石井 節子

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