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どんなに考えても消えない悩みに、最終的に思いついたのは、再びお寺に行くことだった。お寺の門を叩き、開口一番、僧侶に言われたのは「これから修行がはじまるので参加してみませんか?」ということだった。それは、南無妙法蓮華経とひたすら唱えるといったシンプルな修行だった。


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しかし、その修行をしているうちに今までの人生では一度も経験したことがないほど高く軽やかな、しかも平安な精神状態になっていったのだ。

修行が3日目に差し掛かった頃、「今の医局は辞めても良い」という言葉が自身の胸に響いてきたという。それで大学病院を辞めたのだ。

僧侶といえば、葬式坊主と思われたり、宗教というだけで敬遠されたりして、社会的な問題に関わる道が閉ざされ、折角の仏法の知見や経験を世の中に活かすことができないのでは、と思うこともあった。そのため、医師という立場の方が、やはり社会貢献しやすいのでは......と。

しかし、仏法というものが、単にひとつの事柄を表す平板なものではなく、世の中のありとあらゆる事とどんな時代の変遷にも対応する“生きた球体(喩)”のようなものだ、ということが分かった以上、もう自身を止めることはできなかったという。

仮にふたたび医業をやろうと思ったとしてもそれは、単に病気を治療する医師ではなく「いかに生きるか、たましいの躍動、死の恐怖の克服」といったことをテーマとするものになる、と。

死をめぐる本質 「いかに生きるか」


筆者は今回の記事を書きながら、1万人を看取った米国の精神科医、キューブラー・ロスのことを思い出していた。

死を看取る達人のキューブラー・ロスは、自分自身の死が近づいた時に、けっして穏やかに過ごせなかった。田中氏の奥さんがそうであったように、やはり他人の死をたくさん見つめても、聖人のように死を迎えられるわけではなかったのだ。

しかし、このことは、けっしてキューブラー・ロスの功績を削いでしまうことではない。

たとえ1万人を看取っても、それはすべてが他人の死であり、自分の死、愛する人の死とはまったく違うという、死をめぐる本質を示しているのだ。

必ずしも平穏な死が良いわけではない──。今回取り上げた2人の生き様から、自身の死、愛する者の死は、どうであれ特別なものであり、苦しみからは逃れられない。しかし、求道し続けることに意味があり、人生の価値を見出すことができるのだ、という「いかに生きるか」の真理を見させていただいた。

文=長谷川 寧々 編集=石井 節子

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