歴史から考察する新型コロナウイルス後の世界

フランス革命のちょうど90年後、1879年7月14日に日本では太政官布告第28号が公布された。海港虎列刺病伝染予防規則という。コレラを水際で検疫するためのものだ。

歴史的に、日本は天然痘以外、比較的風土病や感染症が少ない国だったが、鎖国をやめたことで海外の疫病が押し寄せてくる危険性が高まった。コレラ予防規則は、広義の安全保障対策だった。現在、7月14日は検疫記念日になっている。

検疫といえば新型コロナ肺炎である。見えない敵との戦いに、世界中が恐怖感に取り憑かれ、官民そろって右往左往させられてきた。

連想で思い浮かぶのが中世の黒死病だ。諸説あるが、中国からイタリアへの経路は間違いなかったようだ。北イタリアはほぼ壊滅、彼方のイギリスにも伝播し、欧州全体で数千万人の死者を出したと伝えられている。あの時代、黒死病への対応策は、遺体を焼却することと集落を封鎖することしかなかった。ボッカチオの『デカメロン』や17世紀に再び黒死病に見舞われたロンドンでダニエル・デフォーが著した『A Journal of the Plague Year』が、酸鼻の様を生々しく描いている。1377年、ベニスで海上検疫が開始され、効果を上げ始めた。検疫期間は40日間、イタリア語で40を意味するquarantaが、英語の検疫、quarantineの語源になった。

欧州の黒死病は、人種や宗教への深刻な差別や迫害行為、虐殺を呼んだ。特にユダヤ人の多くが犠牲になった。

黒死病は中国にも甚大な被害を及ぼした。明を開いた朱元璋は、少年時代に生まれ故郷の村が大疫病に見舞われ、両親と兄を失ったが、この疫病の正体はペストだったといわれている。ペストは元王朝を直撃して、王朝滅亡の一因となった。

歴史として見逃せないことは、ペスト後に何が起こったか、である。

欧州では、都市の人口激減によって、財貨が数少ない生存者の手に入り、後年のブルジョワ階級の先駆けになったといわれる。人手不足で一般市民の収入が増え、市民社会が息づき始めた。農村は農奴不足や耕作物の変化で次第に荘園制が崩れていった。これらは、次第に王権の強化から絶対主義を生んでいくことになる。文化面ではルネサンスを、経済面では大航海時代を迎えていく。中国では、モンゴル族の元王朝に代わり、漢民族の大明帝国が成立した。

冷徹にみると、欧州が世界の中心に躍り出る舞台回しと、漢民族の帝国が再興する地ならしを行ったのが、大災厄のペストであった。
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文=川村雄介

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