「祭り」の本質とは何か サブカルの聖地・中野で盛り上がる沖縄エイサーから考える

東京・中野では、沖縄文化を発信するイベントが多数開催される

いまや「サブカルの聖地」と呼ばれる東京・中野。だが、この街にはもうひとつの顔があることをご存知だろうか? それは、東京でありながら、沖縄を感じることができる街というものだ。

中野駅北口を出て、右手に広がる飲食店街を歩くと、いくつもの沖縄料理店に出くわす。ちなみに、筆者が調べただけでも、中野区には30店ほどの沖縄料理店がある。

また、沖縄の音楽や舞踊が披露され、沖縄料理の屋台も並ぶ「中野チャンプルーフェスタ」や「チャランケ祭」などのイベントも開催されるなど、中野からは沖縄文化が発信されている。

その中心となるグループのひとつが、関東圏の大学生を中心に構成される「東京中野区新風(あらかじ)エイサー」という団体である。代表を務めていたのが、沖縄市出身で、中央大学在学中の仲宗根崇之さんだ。

なぜ中野から沖縄文化が発信されているのか? 仲宗根さんに話を聞いた。


──「東京中野区新風エイサー」とはどのような団体なのでしょうか?

もともとは、早稲田大学の沖縄出身学生が、学園祭でエイサー(沖縄地方などで盆踊りにあたる伝統芸能)を披露したいと集まり、結成されたと聞いています。やがて、大学の垣根なくメンバーが集まるようになり、いまでは沖縄にルーツがない学生も4割くらいいます。今年で結成から19年目になります。週2回、中野で練習をしていて、年間15回くらいイベントにも出演しています。

──仲宗根さんはどのようなきっかけで参加したのでしょうか?

沖縄から上京したばかりの頃に誘われて、気軽な気持ちで参加するようになりました。実は、もともとエイサーには興味がなかったのです。高校までは剣道一筋で、青年団の活動でエイサーに打ち込む同世代の人たちには壁を感じていました。エイサーに興味があって参加したのではなくて、メンバーの人たちの雰囲気が楽しくて参加しました。

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東京中野区新風エイサー代表を務めていた仲宗根崇之さん

でも、それだけの理由だったらすぐに辞めていたかもしれません。自分が惹かれたのは、中野という空間が持つ独特な雰囲気でした。沖縄のエイサーとは違う、中野のエイサーをやっているぞという気概を感じたのです。

なぜ中野でエイサーだったのか?


──中野という土地に重要な鍵があったのですね。それにしても、なぜ中野でエイサーだったのでしょうか?

1970年に、集団就職などで上京した若者のために「沖縄郷土の家」が開設されました。その後、1979年には、東京沖縄県人会の青年部が結成され、事務局が中野に置かれました。その青年部の若者たちがエイサーをやり始めたことで、中野には多くのエイサー団体が生まれたようです。

──沖縄のエイサーと中野のエイサーでは、どのような違いがあるのでしょうか?

エイサーには大きくわけて「伝統エイサー」と「創作エイサー」の2種類があります。先祖への感謝や地域の繁栄を祈るために行われている「伝統エイサー」に対して、踊り方や音楽を工夫し、お客さんに見せることを意識しているのが「創作エイサー」です。
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文=谷村一成

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