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東京五輪を支えた知事は「スポーツ医学」の草分け、IOC委員だった


第2代東京都知事が医師であったという事実に驚く人は多いかもしれない。1959年4月に都知事へと就任した東 龍太郎は、東京帝国大学の医学部教授を務めた医学者であり、日本のスポーツ医学の草分け的存在であった。1964年の東京オリンピックの成功を託された彼は「オリンピック知事」との異名をもつが、就任時には行政実務はまったくの素人であったという。


第2代都知事の東龍太郎。1964年の東京五輪の成功へと尽力した

東龍太郎が都知事に選ばれたのは、彼が日本選出のIOC委員であったという理由が大きい。東は戦後まもない1947年から日本体育協会会長としてオリンピックに携わるようになり、日本オリンピック委員会委員長も務めていた。このような経歴を持つ東は、1950年以降はIOC委員として活躍していた。

都政の実務面については副知事で内務官僚出身の鈴木俊一が支え、東自身は東京オリンピック開催のための渉外に駆け回ったという。初めての予算編成のさなかIOC総会に出席するため渡米してしまったという逸話も残っているが、東のこの驚きのエピソードは、彼が都知事として担っていた使命を物語っているといえるかもしれない。

お茶の間人気の「美濃部スマイル」 NHK経済番組の元・解説者


「天皇機関説」を主張した憲法学者・美濃部達吉の長男であり、東京教育大学教授から政治家へと転向した美濃部亮吉は、社会党や共産党によって推薦を受け、1967年4月15日の選挙を勝ち抜いた革新系の知事であった。知事選出馬前はNHKテレビ『やさしい経済教室』の解説者も務めており、お茶の間にはすでに名前が売れていた。独特の「美濃部スマイル」は女性に人気だったとも言われている。


第3代都知事の美濃部亮吉。公害問題や福祉問題で手腕を発揮

第3代東京都知事として3期12年のあいだ在職した美濃部亮吉は、「都政の主人公は都民」をモットーに、情報公開と都民参加の都政の実現を目指した。マスコミを活用して世論を味方につけるとともに、安井都政時代から問題視されていた公害対策などで手腕を発揮。自民党政権に対しても大きな存在感を示した。しかし第1次、第2次オイルショックが続くと、政策は行き詰まり財政危機を招いてしまう。国から「バラマキ福祉政策」であったと批判されるようになると都政からは退陣。最後は「惨憺たる幕引き」であったとも言われている。

ちなみに「東京で美濃部革新都政が誕生したのは婦人が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」と述べ、その女性蔑視的な発言が問題視されていたのは、のちに首相も経験することになる麻生太郎であった。

12年ぶりに都政に返り咲き「ミスター行革」 黒字化するも転落


第2代東京都知事・東龍太郎を副知事として支えていた鈴木俊一は、1979年4月に第4代東京都知事として都政に返り咲く。東龍太郎の後継と目されていた彼は、自民党の推薦を得られず立候補を断念して以降、12年経っての都知事就任であった。


第4代都知事の鈴木俊一。深刻な財政赤字を3年で黒字化した

前任の美濃部は一般会計において1012億円という赤字を残していたため、都民から鈴木にかけられた期待はもちろん財政再建であった。就任後、鈴木は副知事を3人から2人に減らし、局長ポストを10削減、指定職の退職金を10%カット、自らの給料を半減させるなど、身を切る改革によって財政再建に取り組んだ。

文=渡邊雄介、編集=督あかり

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