(前回の記事:冤罪報道の限界。脱・当局依存の手がかりは「主観」報道だった)
呼び鈴を押すと、玄関先に輝男さんが出迎えてくれた。深く刻まれた顔のしわが目に焼き付いた。娘を救い出すために戦い続けてきた12年の苦悩の痕跡を、その顔のしわが物語っているようだった。
「よく来てくれました。どうぞ上がってください」
招かれるままに、奥の居間に通されると、そこに母親の令子さん(69)が車いすに座り、深々と頭を下げていた。娘が冤罪に巻き込まれてからの苦労が重なり、逮捕から5年後の2009年に脳梗塞を患った。後遺症で右半身が思うように動かせない不自由な体だった。
「いち早く帰って(脳梗塞で倒れた)お母さんのうごかない右足になってあげたい」。手紙の抜粋メモにあった、西山さんの言葉を思い出した。
車いすになっても、月2回は刑務所に面会へ
両親は毎月、娘を励ますために、滋賀県彦根市から和歌山市の女子刑務所まで面会に出かけていた。令子さんが車いすになっても、毎月2回以上の訪問を欠かすことはなかった。娘が手紙で頼んでくる何冊もの本や、日用品をその都度差し入れたり、送ったりしていた。かさんでくる訴訟費用のために、生活を切り詰め、面会も特急列車は使わず、普通列車で往復7時間以上かけて通い続けた。
居間に通された私たち2人に、輝男さんが事件のことを語り始めた。部屋に入った当初は3人掛けのソファに2人で座っていたが、輝男さんが正座していたため、私たちもソファの前に正座して聞いた。
「私が中学しか出ておらず、何にもわからんもんやから、警察にいいようにされてしまって」
悔しそうに声を絞り出した。
「娘は、まだ社会に出たばかりで、何もわからんかったと思います。そんな娘をいいようにしゃべらせて。何もしてない娘に、殺人なんていう恐ろしい罪を着せて。ほんまに、こんなことがあって良いんですか」