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「経営は科学だ」

売上高と営業利益の上のグラフを見ると、富士重工はまるで龍が天に昇るような勢いで急伸している。営業利益率は自動車業界でダントツ1位。連結販売台数も過去最高を記録し、為替差益だけが躍進の要因ではないことがわかる。

吉永は11年に社長に就任したとき、すでに辿り着いた結論があった。それは「ある意味、経営は科学だ」という思いだ。辻褄が合わないこと、非合理的なことを排すると言い換えてもいい。一見、シンプルなことだが、そこに到達するには難題があった。「合意形成」である。

07年に国内営業の担当となった吉永と社長の森が議論を重ねる中で、浮上したのが「軽自動車の生産撤退」だった。しかし、吉永が振り返る。「当社のさまざまな関係者から販売店さんにいたるまで、一斉に『ありえない。何を考えているんだ』の大合唱でした。スバル360からスタートした軽自動車メーカーなのに、暴論だというわけです」

一方、吉永が考えていたのは、自分たちの会社の立ち位置である。富士重工は売上高が当時1兆5,000億円で、「総合輸送機メーカー」を自認している。航空機産業から塵芥収集車、風力発電まで幅広く手がける大企業だが、売上高の9割以上は自動車である。だが、自動車業界の中では車種が少なく、世界のシェアは約1%と小さい。そのうえ国内向け商品でしかない「軽」に注力していては世界で生き残れない。

「どういうかたちで世界で生き残りたいのか」

吉永の問いかけに、多くの社員は「車の数は少なくても特徴のあるメーカー」と答えた。事実、際だった特徴はある。ポルシェとスバルだけがもつ水平対向エンジン。振動が少なく、走りの安定性を誇る。また、「スバルサウンド」と呼ばれる独特の排気音を好む熱烈なスバルファンを持つ。

技術が売りなのだが、吉永はこう言う。

「規模が小さい会社だから、開発の手を広げるのは無理がある。だったら、軽に割いている経営資源を、新規車種や小型車のモデルチェンジに寄せるべきです。他社さんに比べて当社の車はモデルチェンジまでの期間が長かった。もっと早くして、さらに新しい車を出す。それが合理的だと思ったのです」

軽の生産中止には、誰もが納得する大義が必要だ。会社の立ち位置を自問し続ける吉永は、ある晩、帰宅すると本棚から社史を取り出し
た。ページをめくっていると、意外な記述を見つけた。

てんとう虫の形をした排気量360CCのスバル360が誕生したのは1958年だが、実はそれ以前にもう一つのストーリーがあった。「本格的な自動車をつくれ」。初代社長、北謙治の号令のもと、54年に完成したのがコードネーム「P-1」という第一号試作車だった。当時の劣悪な道路事情を克服するため、航空機の技術者たちが研究を重ねて乗り心地や安定性を追求した画期的な車である。

北は「国産車には日本語の名前をつけるべきだ」と言い、自ら『枕草子』に登場する六連星の「星はすばる」を引用した。富士重工は6つの会社が統合した企業であり、夜空に青白く光る6つの星「すばる」にその思いを重ね合わせたのだった。

しかし、無念にも「初代すばる」は夢と消えた。「資金調達の面で問題が生じ、小型車P-1の量産は断念せざるをえませんでした。小型車をつくれなかったが、その思いは軽自動車のスバル360へと繋がったのです」と、吉永は言う。幻のすばるから半世紀が経ち、ルーツを知った吉永は、「軽をやめるなんて暴論だ」と反対されると、「いえ、暴論じゃありません。聞いて下さい」と語り出した。
「先輩たちの夢は飛行機から始まり、飛行機の技術を活かした車です。そして本当にやりたかったのは小型車なんです。私たちは今こそ、すばるになろうとしているのです」

そうやって全国の販売店組織をまわっていると、「あなたの話はわかるけれど、納得できない」という声があった。スバル360の時代からつき合いのある販売店だ。それでも決意に至る理由と思いを説明し続けるしかない。最後に行き着いた地方都市では販売店組織の新年会に参加した。浴衣での宴会となり、酒が入った販売店主たちからは本音が飛び交った。

「何百回でもきちんとお話しします」。吉永が繰り返すと、一人の販売店主は折れてこう言った。

「悪いけれどもう年で、心と体がついていかないよ。だけど、あなたがぶれていないことはちゃんと理解したから」

<後編へ続く>

文=藤吉雅春 写真=青木倫紀(ライト)

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