旅の究極の目的とは? 1年に一度、心の洗浄を


旅の究極の目的とは?


人が観光や旅をしたいとき、そこには目的というものがある。行ってみたい場所、初めて体験するアクティビティ、そこでしか味わえない食事……。でも究極の目的は、「人」ではないだろうか。少なくとも僕は「わいんぱぶ ためのぶ」のお父さんに会うためだけに、弘前をまた訪れたい。

3年前、長崎市のキャンペーンで「長崎◯◯LOVERS」というのを仕掛けたことがある。長崎市民が「◯◯」の部分に自分の好きなモノ、コト、バショを自由に入れ、公式ウェブサイトやSNSで発信し、一人ひとりの「好き」で長崎市を盛り上げていくというプロジェクトだ。これはまさに長崎市の個人と観光客を結びつけたい、という想いが根っこにあった。

僕が京都という街に惹かれ、ついに住むに至ったのも、究極は「人」である。それは「くれない茶屋」という店を営んでいた秋山夙子さんというおばあちゃんだ。出会いはもう25年以上も前。京都の老舗レストラン「DIVO-DIVA」で、シェフに「面白いところがある」と教えてもらった。嵐山よりさらに山奥に清滝という、愛宕神社にお参りするための拠点のような小さな町があり、その町を貫く清滝川沿いに廃業寸前の喫茶店があるという。

もとは小料理屋だったそうだが、僕が初めて訪れたときはすでに「知り合いが来たら何か食べさせる」というタイプの店だった。メニューもなくて、近くで栽培している椎茸を干してとった出汁に卵をひとつ落としただけのすまし汁とかまど炊きのおにぎりにお漬物とか、お茶とその日のお菓子のセットとかいうのを適当に出してくれて、「じゃあ、今日は2000円ね」という感じだった。

そのおばあちゃんが毎回、なんてことのない話をしてくれた。「昨日の夜、寝ていたら音がするので、なんやろう思て戸を開けたら虫が1匹いて、それを外に出してあげたんよ」というような、オチも何もない話なのだが、それがなんだか心に沁みる。支払いを済ませて外に出れば、谷底みたいな場所にある店から上まで登るのに2~3分。見送りの気配を感じつつ、最後にもう一度振り返ると、小さくなったおばあちゃんがまだ手を振っているのが見える……。

僕は年に1回、そこに通うようになった。仲良くなるにつれ、おばあちゃんは「お金は要らない」と受け取らなくなり、最後にはお小遣いまでくれた。2万円も入っていて、僕はいまもそれをいただいた封筒のまま大切に保管している。「くれない茶屋」は僕にとって、1年に一度、心の洗濯をしに行く場所だった。

消える喜び、残る喜び


そのおばあちゃんが亡くなった。息子さんから昨年暮れに連絡があり、「母がたいへんお世話になりました。小山さんが母のことを書いてくれた本も読ませていただきました。母は死ぬまでずっと小山さんの話をしていました」と言われた。恐縮な話だが、戒名の一字には僕の「薫」という字を入れてくださったという。

僕はおばあちゃんからもらうばかりで、自分が何かをあげたとは思っていなかったから、そこまで思ってくださった理由がよくわからなかった。でも、「わいんぱぶ ためのぶ」のお父さんに日々の幸せは何かと問い、「孫に小遣いをあげるとき」という話をしてもらったときに、少し、腑に落ちた。「与えられた人はもらったときにすごく喜ぶけれど、その喜びっていうのは早く消える。でも、与えた側の喜びっていうのはずっと残るんだ。だから孫は俺が小遣いをやったときは喜んでもすぐに忘れるけれど、俺はずっと覚えているんだよ」

イラストレーション=サイトウユウスケ

この記事は 「Forbes JAPAN 5月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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